2007年1月24日(水)赤ちゃんポスト? ハンドルネーム・あいさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームあいさん、女性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。このメールが番組で紹介される頃にはすっかり世の中から忘れ去られてしまっているかもしれませんが、赤ちゃんポストについてクリスチャンとしての先生のご意見をお聞かせください。
新聞でニュースを知り、また朝のテレビ番組でも有識者のコメンテーターの方たちがいろいろな意見を交わしています。赤ちゃんポストという言葉もすごく悲しい感じがします。人間がまるで郵便物のように扱われてしまうような気がして背筋の凍る思いです。
第一、赤ちゃんを捨ててしまうという親の発想そのものが馬鹿げていて私には受け容れられません。そんな馬鹿げた行いを助長してしまうようなこの制度にはどうしても納得できません。ほんとうに必要な制度なのでしょうか。
新聞の報道によれば赤ちゃんポストを設置する病院はキリスト教系の病院のようですので、先生にご意見をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。」
あいさん、メールありがとうございました。この番組が放送されるのはおよそ三ヶ月先のことですから、放送されるころにはすっかり古い話題になっているかもしれません。あるいは逆に大きな社会問題になっているかもしれません。どちらにしても、わたし自身も新聞で話題を知って興味を覚えている問題です。
番組を聴いてくださっている方にとっては既にご存知のことかもしれませんが、「赤ちゃんポスト」についてわたしの知る限りのことをまずお話したいと思います。ただ、この番組が放送されるのは三ヵ月後ですから、今、この番組を収録している時点での古い情報だということをどうぞご了承ください。
新聞などの報道によれば、話の発端は熊本県にあるキリスト教系のある病院でのことです。その病院では何らかの理由で親が養育することのできない新生児を匿名で受け容れるための施設を2006年の年末までに設けるということを決めたそうです。病院の説明によると、丁度ポストのように病院の建物に穴を開け、新生児を外から入れられるような箱を内側に設置するそうです。箱の内部は保育器と同じように室温が36度に保たれ、24時間いつでも受け付けられるような態勢を整えることになっています。誰かが赤ちゃんを入れたときには院内の看護師らにブザーで知らされる仕組みになっています。この番組が放送されときにそれが実現しているのかどうか、私は預言者ではありませんからわかりませんが、同様の施設は数年前からドイツでは「ベビーネスト」とか「ベビークラッペ」などの名前で設けられています。新聞などでは「赤ちゃんポスト」という言い方がなされていますが、お便りの中でも言われているとおり、とても非人間的な響きの言葉です。「赤ちゃんポスト」という名称は設置者たちがつけたものなのか、それを批判的に評価する人たちがつけた皮肉な名称なのか分かりません。熊本の病院では「こうのとりのゆりかご」という名称をつけたようです。
さて、まずこのようなシステムの問題を考える時に、それを必要としている実態を私たちは知る必要があるのだと思います。わたし自身はそうした実態に常に直面しているわけではありませんし、そうした実態の正確で詳しい内容を知りません。ただ、実務に携わる人たちにとっては、この実態は放置できない現実なのだと思います。そうでなければ、このようなシステムを導入する意味がわかりません。
そして、もちろん、こうした実態そのものを嘆かわしく批判的に思う人もいるでしょう。当然一番先に考えられなければならないことは生まれてきた赤ちゃんの生きる権利をどう守るかという問題なのだと思います。育てることができない何らかの事情がその赤ちゃんの親の責任から生じたものであれ、そうでないものであれ、赤ちゃんの生きる権利には違いがあってはならないはずです。現実に育てられないという事情がある以上、そして、赤ちゃんの生きる権利を無視しないということであれば、少しでも生まれてきた赤ちゃんの生きる権利が守られるような方法をいずれにしても考えていかなければならないことは当然です。
そうした具体的な方法の一つが、話題になっている「赤ちゃんポスト」の問題ということです。
このシステムを長期にわたって必要と必要とするような社会はもちろん嘆かわしいことです。このシステムを必要としなくなるような社会的な取り組みが必要なことは言うまでもないことです。しかし、繰り返しになりますが、今助けなければならない命があるならば、それは何にもまして優先的に助ける必要があるということなのです。
では、このシステムに対する批判にはどんなものがあるのでしょうか。一つには、このような設備を設置すればするほど、赤ちゃんを遺棄する件数が増えてしまうのではないかという心配です。今までは思いとどまっていた人たちも、このようなシステムができることで安心して赤ちゃんをポストに入れてしまうのではないかと考えられるからです。
もう一つの批判は、そのようにして引き受けられた赤ちゃんの生涯にわたる心のケアは誰の責任のもとでどのようになされるのかという問題です。さらには、設置したポストに赤ちゃんが置かれ、病院で一時的にケアされるところまではうまく機能したとしても、その先の引き取り手がうまく見つかるかどうかという問題も不透明なままです。
ただ、最初の批判に対しては、同様のシステムを持っているドイツでは赤ちゃん遺棄の件数は、システム導入後増大していないという実績があります。もっとも、日本でも同じ結果になるかどうか保証されているわけではありません。
さて、わたし自身はこの問題の専門家ではありませんから、コメンテーターの方たち以上のコメントをできるわけではありません。ただ、一人のクリスチャンとしてものを考える出発点は、いつも、罪に染まった現実の世界ということです。正しい生き方はどうあるべきかという議論はもちろん大切です。それはそれとして議論しながらも、その罪の世界の一番の被害者である赤ちゃんの命をどうしたらもっともふさわしく守ることができるのか、そういう観点から一つは物事を考えるべきだということです。その点では今度のシステムは一つの試みであると思います。
もう一つ大切なことは、罪の現実を覆い隠そうとしないことです。「赤ちゃんポスト」というシステムの存在自体が社会の恥だと考える人もいるかもしれません。しかし、その実態を隠せば隠すほど罪の実態は闇に葬り去られてしまうのです。むしろ、目の前に現実を見るときにこそ、さらなる善い方策も生まれてくるのです。
最後に、このシステムを利用する人のことを少しだ考えたいのですが、このようなシステムを利用せざるを得ないその人の現実と心の苦しみにも目を向ける必要があるのではないかと思っています。利用せざるを得なくなった理由が本人の責任であれ、そうでないのであれ、苦しみを共にすることはクリスチャンとして当然あるべきことであると思います。