2007年1月3日(水)キリスト教では愛国心って? 東京都 T・Kさん
新しい年を迎えて、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。今年もどうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのT・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつもインターネットで番組を楽しませていただいています。
さて、巷では教育基本法の改正に伴って『愛国心』ということがことさらに声高に言われています。『愛国心』と言うことを聞くと、どうしても右翼的な、戦前のイメージが先行してしまい、恐くなってしまいます。しかし、冷静に考えてみると、『愛国心』を持つことのどこがいけないのかとも思ってしまいます。
そこで質問なのですが、キリスト教では『愛国心』をどのように考えているのでしょうか。よろしくお願いします。」
T・Kさん、お便りありがとうございました。ご質問いただいた「愛国心」についてですが、まさに、この日本では議論の渦中にある問題です。お便りの中にもありましたが、教育基本法の改正という問題に伴って、この愛国心についての議論もあちらこちらで聞かれるようになって来ました。ただ、発表された教育基本法の改正案には「愛国心」という言葉そのものは出てきません。それに代わって改正案の第2条の中に、教育の目標の一つとして次のような言葉が記されています。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」
この部分こそ、正に「愛国心」にかかわる部分であると言われています。つまり、愛国心とは何かと問われれば、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ことであるということなのです。教育基本法の改正案では、そのように愛国心を定義し、この愛国心を教育することが、教育の目標の一つに掲げられていると言うことです。この教育基本法の改正の問題に限って言えば、愛国心の定義として、その定義は納得がいくものであるのかという問題があります。それから、もう一つの問題はそうした愛国心を教育の現場で教えることはできるのかという問題もあります。
そうした問題は今ここで論じることは、ちょっと脇へ置いてT・Kさんのご質問に戻りたいと思います。それにしても、なぜ教育基本法の改正ということを最初に持ってきたかというと、もちろん、T・Kさんのお便りの中にそれについて触れられていたからと言う理由があります。しかし、それ以上に、「愛国心」という言葉が、それを使う人や受け取る人によって、意味するところが一定ではないと言うことを指摘したかったからです。
そもそも愛国心が言うところの「国」とは何かという場合、今回の教育基本法改正案のように故郷である日本の国を漠然と指していると考える人もいます。故国の四季折々の気候や風土、文化、そうしたものが大好きだというのも愛国心であるかもしれません。日本に対する郷愁感と言っても良いかも知れません。
しかし、別の人たちは、愛国心が言うところの「国」とはもっと政治的な意味での国、具体的には現在の政治体制の上に成り立っている政治的な共同体という意味でそれを考える人もいるということです。
特に戦前の大日本帝国憲法のもとでは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といういわゆる「国体」を護持することが愛国心の中心でした。
このように見てくると、キリスト教が愛国心についてどのように考えているのかと言うことを一口に言うことはできません。
もし、単に故国に対する郷愁感ということを大切にするだけのことであれば、それに対して、キリスト教は特別に反対する理由などあるはずもありません。パウロはアテネの人たちに対する説教の中でこう言っています。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」(使徒言行録17:26)
つまり、民族も風土に繋がる季節も、またその民族が住まう国境も神がお定めになったものですから、それを大切に思う心にキリスト教が反対するはずもありませんん。
もっとも、国固有の文化に何が含まれるのかという問題になると、キリスト教は愛国心についてもろ手を挙げて賛成できなくなる場面も出てきます。
たとえば、「神道は日本固有の文化ですから、日本人なら皆、神道を信仰すべきです。あるいはその維持に努めるべきです」という愛国心ならば、当然その愛国心ににキリスト教は従うことはできません。
さらに、政治的な共同体としての国家に対する忠誠という問題になると、もちろん、聖書は国家そのものは教会と並んで神がこの世に与えた制度であることを教えています。その意味では為政者や官憲も神から遣わされた者として、それらの人々に対して忠実に従うべきことを聖書は教えています(ローマ13:1-7)。しかし、そうした愛国心でさえ、信仰の良心に反することを求められる時には、信仰の良心が優先させられるものと考えられています。
もっとも、この議論はクリスチャンだけの問題だけではありません。現体制を維持する人たちは、現政権に対する忠誠心を愛国心と呼びます。しかし、現体制に反対する人々は自分たちこそが愛国心に満ちた愛国者であるとして、現政権への忠誠を拒んだり、場合によっては革命やクーデターを起こすのです。
この意味での愛国心は時と場合によって具体的な意味内容が大きく異なってしまうので、クリスチャンはその内容についていつも鋭い目で検討しなければなりません。「愛国心」と言う言葉が問題なのではなく、結局はそれが何を意味しているのか、何が求められているのかが問題なのです。
さらに政治的な意味での愛国心と言う場合には、言外にいつも敵国を想定しています。政治的な愛国心の中心にあるものは国益を犯す敵の侵略に対してどれだけの犠牲を払うことができるのかと言うことです。クリスチャンはすべてが同盟国に属しているわけではありません。国益の追求にクリスチャンが走れば、どちらの国のクリスチャンも国益を守る愛国心の名のもとに相手のクリスチャンと戦わなければならないという矛盾が生じてしまいます。
最後に、今回のご質問にはありませんでしたが、こうした愛国心を国が教えることの是非について考える必要があります。これはキリスト教固有の問題ではもちろんありません。しかし、クリスチャンにとっても無視できない問題であると思います。
特に伝統や文化を愛国心と結びつける時には、危険が伴います。何が日本の伝統であり、何が日本の文化かということは、個々人で受け取り方が違って当然のはずです。たとえば、戦後の日本は随分とアメリカ的な生活になりました。それを愁う事が愛国心なのか、それとも、そうした外国の文化を取り入れて発展してきたことを日本の文化と誇りに思うのか、それを国で方針を決めて教育することがなじむことなのかどうか疑問です。先ほども例を挙げましたが、このことは宗教的な事柄にも立ち入ってくる危険な問題であることを心に留めておくべきでしょう。