2006年11月29日(水)天使礼拝って? 栃木県 A・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は栃木県にお住まいのA・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。BOX190の原稿をネットで読んでいる者です。貴ホームページは記事の検索もできて、過去の記事からたくさんのことが学べるので、私にはとても役に立っています。感謝しています。
さて、きょうは聖書の中に出てくる言葉について、質問があり、メールしました。それはコロサイの信徒への手紙2章18節に出てくる『天使礼拝』という言葉です。この手紙によれば、コロサイの教会は『天使礼拝にふける者』たちからの悪影響を受けそうな危険にあるようです。
そこで質問なのですが、この『天使礼拝』というのは具体的にはどういうことなのでしょうか。天使礼拝という言葉をコンコルダンスで調べてみましたが、『天使礼拝』という言葉は聖書の中にはここにしかでてこないので、いったいこれはどういうことなのか疑問に思いました。何か神に代わって天使を礼拝するような特別な異端がその当時あったのでしょうか。
あるいは、黙示録の19書10節や22章9節に出てくるように、うっかりと天使の前に跪いて拝もうとする思いが、いつしか恒常的になってしまった結果、天使礼拝へと発展していったということでしょうか。この点についてよろしくお願いします。」
A・Tさん、メールありがとうございました。A・Tさんは細かい点にお気づきになったようですね。そうやって普段から様々な疑問を見出すことは聖書を深く学んでで行く上でとても大切なことだと思います。これからも、是非、いろいろな点に興味を持ちながら聖書を学びつづけてください。
さて、きょうのご質問は、実はとても大きな問題を含んでいます。「天使礼拝」という言葉そのものの問題も大きな問題ですが、そもそも、このコロサイの信徒への手紙がなぜ書かれたのかというとても大きな問題とも絡んでいるのです。具体的にはコロサイの信徒への手紙の2章8節に出てくる「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」といわれている教えは、具体的にはどういう異端的な教えなのか、コロサイ教会を正しい教えから引き離そうとしている敵対者たちの教えがどういうものであったのかということと関係しているのです。
A・Tさんがご質問してくださった「天使礼拝」という言葉も、実はこの「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」を吹聴している人たちの実践していることなのです。
ここで「天使礼拝」と訳されている言葉ですが、この言葉自体には二通りの理解が可能です。ギリシア語の本文を文字通りに翻訳すれば「天使たちの礼拝」です。「天使たちの礼拝」と言おうが「天使礼拝」と訳そうが、何も変わらないと思われるかもしれません。では、「天使」という言葉の代わりに「人間」という言葉を入れてみたらどうなるでしょうか。「人間礼拝」と「人間たちの礼拝」という具合になります。「人間礼拝」というと「人間を礼拝する」という意味に取れるかもしれません。また、「人間たちの礼拝」というと、人間たちが執り行う礼拝という意味にも取れるでしょう。
同じように「天使礼拝」という言葉それ自体には、「天使たちを礼拝する」のか「天使たちが礼拝するのか」どちらにも解釈できる余地があるのです。
おそらくA・Tさんは最初からこの言葉を「天使たちを礼拝すること」という意味に受け取られたのではないかと思います。確かにそういう解釈も文法的には可能です。しかし、もう一つの解釈、「天使たちたちがする礼拝」という解釈も捨てがたいものがあります。
では、どちらの解釈が蓋然性が高いのでしょうか。
それは「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」を信奉する者たちがどんな人々であったのかということと深く関わりを持っています。もちろん、彼らと同じ異端が他の書簡の中や、初期キリスト教会の文献の中に現れてきているのであれば、その輪郭をもっと明瞭に知ることができるでしょう。しかし、残念ながら、コロサイの教会を襲っているこの間違った教えに関しては、コロサイの信徒への手紙に書かれていること以上には知ることができないのです。つまり、手がかりはすべてこの手紙の中にしかないということなのです。
一つの考える手がかりは、彼らの「哲学」がおそらくはユダヤ教の中から出てきた教えであったということです。それは彼らが「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日」を重んじる主張をしていたらしいことから分かります(コロサイ2:16)。少なくとも安息日を強調する教えは、他の異教からは出てきません。ですから、コロサイの教会を悩ませていた異端的な教えは、ほぼ間違いなく、ユダヤ教のバックグラウンドから出てきたものと思われます。
もし、この異端的な教えがユダヤ教のバックグラウンドを持つものであったとすれば、唯一の神だけを礼拝することが強調されるユダヤ教の教えから、天使を礼拝するという発想は出てこなかっただろうと思われます。
A・Tさんが引用された黙示録にもあるように、唯一の神だけを礼拝する立場に立つ者にとっては、天使を礼拝することなどもってのほかなのです。ちなみに引用してくださった箇所では、ただ単に天使の前にひれ伏したということでさえ、咎められているのですから、天使を礼拝することなど考えられないことです。黙示録の19章10節や22章8節で使われている言葉は、天使を礼拝したというよりは、単に天使たちの前にひざまづいたり、ひれ伏したりする行為です。それは王や身分の高い者に対してもひざまづいたり、ひれ伏したりということは挨拶としてありうることなのです。ただ、黙示録のあの箇所では、それさえも禁じられて神だけを礼拝するようにといわれているのです。
いずれにしても、ユダヤ教にとってもキリスト教にとっても唯一の神のほかに天使を礼拝するなどという教えはありえないことですから、たとえ異端的な教えを吹聴して回るかれらであっても、天使を礼拝することなど行っていたとは考えられません。
むしろ、「天使たちが行なう礼拝」と考えた方がしっくりするように思います。天使が神を礼拝するという描写自体は聖書にも馴染みがあるものです。
おそらく、この異端者たちは天使たちが行なう礼拝に与ることを自分たちの特別な経験と考えていたのでしょう。コロサイの信徒への手紙2章18節は「こういう人々は、幻で見たことを頼りとし」ていると記しています。つまり、天使たちのなす礼拝に与っている幻を見たことが彼らの異端的な教えの特徴なのかもしれません。