2006年5月17日(水)「何度でも罪は赦されるのですか?」 ラジオネーム・くーさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はラジオネーム・くーさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。先生のソフトな語り口、でも、考えさせられることが多く、いっぱい学ばせていただいています。
 さて、きょうは腑に落ちないことがあってメールしました。それは、洗礼を受けたら今までの罪はすべて赦されるというのはわかるのですが、その後犯してしまった罪はどうなるのでしょうか。それも赦されると聞きましたが、確かにそうでなければ、人間は弱い存在ですから、最後まで救われた状態を保つことなどできないと思うます。
 けれども、洗礼を受けたあとも、どんな罪でも赦されるのだとすれば、これはとても誘惑が大きいような気がします。どうせ赦されるのだからと、ついつい悪いことをしてしまうのが人間です。  もちろん、イエス・キリストが弟子のペトロの質問に答えて、7を70倍するまで赦しなさいといったことは知っています。言い換えれば、どんな罪であっても、7を70倍するほど数限りなく何度でも赦されるということです。
 ほんとうにそれでよいのか、どうしても腑に落ちないのです。いったい、わたしたちは罪の赦しということをどう考えたらよいのでしょうか。すっきりする答えをおしえてください。よろしくお願いします。」

 くーさん、メールありがとうございました。くーさんのご質問はとても古くからある疑問だと思います。確かに人間というのは弱い存在ですから、洗礼を受けた後も、罪を犯してしまう可能性はいくらでもあります。また、実際洗礼を受けてから罪を犯してしまうことは誰にでもおこることです。いくら洗礼を受けたからといって、その次の日からすぐに神と隣人とを完全に愛する生き方ができるかといえば、みんながみんなそうではありません。もし、洗礼を受けた後に犯した罪が絶対に赦されないのだとすれば、くーさんのおっしゃるとおり結局は誰も救われないことでしょう。  けれども、誤解してはいけないのですが、どんな大きな罪もキリストにあって赦されない罪はありませんが、どんな小さな罪も悔い改めることなく赦される罪はありません。
 イエス・キリストはルカによる福音書の17章3節と4節で、こうおっしゃっています。

 「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 もし、ほんとうに1日に7回も罪を犯す人間がいたとしたら、おそらく、わたしたちならば、もう赦す気さえしなくなってしまうことでしょう。しかし、イエス・キリストは1日に7回でも赦してやりなさいと命じています。ただし、その人が悔い改めるならば、という条件つきです。もっとも、1日に7回も罪を犯して、7回も「悔い改めます」と言うその言葉が信用おけるかといえば、おそらく信用など置けないことでしょう。しかし、それでも、イエス・キリストは、本人が悔い改めるという気持ちを言い表す限り、赦すようにと命じているのです。つまり、悔い改めを言い表しているならば、たとえそれが洗礼を受けた後で犯した罪であっても赦されるのです。

 ところで、カトリック教会では告解の秘蹟と呼ばれるものがあります。自分の罪を深く悔いて、司祭の前で罪を告白することです。それにたいして、司祭は罪の赦しを与えます。
 プロテスタント教会にはこのような特別な機会を設けませんが、例えば、改革派教会の式文では、主の日の礼拝の中で罪の告白がなされ、それに対して罪の赦しの宣言がなされます。もちろん、罪の赦しを宣言するのは、罪の告白が真の悔い改めを伴ったものであることが前提です。
 いずれにしても、カトリック教会であれ、プロテスタント教会であれ、まことの悔い改めをなす者には、たとえ洗礼を受けてから犯してしまった罪であったとしても、その罪が赦されることを信じているのです。

 では、そのような教えは、結局人を堕落させてしまうのではないかという疑問はもっともなことなのでしょうか。確かに「どうせ赦されるのだから、罪を犯してもよいのではないか」という考えに流れてしまうのだとすれば、そのような教えは人を堕落させてしまうことでしょう。しかし、誤解してはいけないのですが、「どうせ赦されるのだから」と考えて罪を犯すのだとすれば、それはまことの悔い改めとは相反することだといわざるをえません。まことの悔い改めは、神を愛する心から出てくるものです。しかし、罪を犯そうと思う思いは、神を愛さない心から出てくるものです。その2つは決して共存することはできません。もちろん、悔い改めたあと、弱さのために罪をまた犯してしまうということはありがちなことです。しかし、最初から赦されることを期待して罪を犯すことをつづけるのだとすれば、そもそもそれは悔い改めているとはいえないのです。悔い改めるならば1日に7回でも罪は赦されますが、どうせ赦されると思って犯す罪は、悔い改めを伴わないのですから、1日に1度も赦されることはないのです。そのことを真摯に受け止めるのであれば、けっして、この教えは人を堕落させるようなことはないはずです。

 そもそも、イエス・キリストが「1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とおっしゃったのは、人を堕落させることが目的ではありません。神の裁きを心から恐れ、いつでも悔い改めて罪赦される中で、希望をもって生きるためです。その目的を正しく理解しているとすれば、そもそも、「どうせ赦されるのだから」という発想そのものが生まれてこないはずです。
 ただ、それでも、人間は弱く罪に陥りがちであることは否めません。だからこそ、弱さに身をゆだねて、弱さのままに罪を犯して生きるのではなく、弱さがあるからこそ、助け主である聖霊なる神に信頼して、罪と戦いながら生きることが求められているのです。けっして赦されることを口実に弱さのままに罪のうちに生きることを聖書は許可していないのです。