2005年12月28日(水)「男の着物・女の着物」 新潟県 ラジオネーム・スヌーピー大好きさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は新潟県にお住まいのラジオネーム・スヌーピー大好きさん、男性の方からのご質問です。今年最後のご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「先日、申命記の22章を読んでいたら、5節に、『女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる』と書いてありました。この申命記の書かれた時代は、紀元前で、モーセの十戒の後の頃の話です。

 さて、この文章を読んで、最近ですが、女性が男の着物を身につけたり、また、反対のこともよくあります。例として、最近は、Tシャツ、ポロシャツ、スエット、短パンを始め、多くの物が男女兼用のことがよくあります。さらに、女性が大きくて女性物の服が着れないとかで男性物のそれを着たり(スエット、ポロシャツなど)、また、母の着なくなったTシャツなどを息子が着たりする例も良くあります。

 こういうようなことは、今回私が挙げました前記の御言葉をそのまま当てはめてしまったら、完全に違反行為扱いされます。しかし、今のこの社会でこの言葉をそのまま完全に当てはめることができるのかどうかとなると、非常に疑問に思います。

 もし、これを現代社会にてここまで徹底的に行わなければならないとなると、まるでパリサイ人のようになってしまっても仕方がないと思います。更に新約聖書になると、パウロは第1コリント10章23節にてこう書いています。

 『すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません』(新改訳聖書の訳を引用)

 即ちここでは、どんなことでもしてもいいけど、神様と人との前で、秩序をちゃんと保った行動をしなさいということを述べています。更にその行動が、「あなたの体をもって神の栄光を現しなさい。」とも書いてありますで、要はこの件については、現在では、各々個人が秩序を持ってちゃんと行動すればいいと思うのですが、どうでしょか? 山下先生のご意見をお聞かせください。」

 スヌーピー大好きさん、メールありがとうございました。旧約聖書の律法の中には、スヌーピー大好きさんが上げてくださったものの他にも、現代社会にそのまま通用することができないものがいくつもあることはご存知だと思います。たとえば、細かいことを言えばレビ記の19章19節には「二種類の糸で織った衣服を身に着けてはならない」と定められています。ところが、市販の製品の品質表示を見ていただくと、化学繊維が入っていたり、異なる種類の繊維を混合して紡いだ糸を使っているものがたくさん見受けられます。そんなことを一々気にして100%綿だけ、あるいは100%毛だけの着物を着ているクリスチャンはいないだろうと思います。

 あるいは、もっと大きなことでは、クリスチャンはユダヤ教の安息日とは異なった日を定めて礼拝を守っています。律法の命じるところでは七日目、すなわち今日で言う金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日であるはずです。しかし、いつの頃からかはっきりは分かりませんが、比較的早い時期からクリスチャンはキリストが復活した日曜日に礼拝を守るようになりました。

 割礼の問題もそうです。その件に関しては使徒言行録の15章のところで、使徒たちがエルサレムで会議を開いて取り決めをしました。それによれば異邦人たちにも課せられた決まりは以下のとおりでした。

 「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。」(使徒言行録15:19-20)

 つまり、使徒たちの判断によれば、異邦人には割礼を強要すべきではないということでした。しかし、すべてのモーセの律法を守らなくてもよいものとしたわけではありません。

 さて、ではどの律法が今でもなお守ることが求められており、他方、どの律法がもはやその役割を終えたのか、そのことはとても大切なポイントです。

 宗教改革者たちは、旧約聖書に記された律法を三つの種類に分類しました。その三つというのは、社会規範、儀式律法、それから道徳律法の三つです。社会的な規範というのは、たとえば、申命記19章15節には裁判の証言についての定めが記されています。

 「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」

 これは現代社会では国が法律をもって定めるところです。こういう種類の律法に関しては、旧約聖書の定めがそのまま通用するのではなく、それぞれの国家が適正な方法で定めることができるというのが宗教改革者たちの考えでした。

 二番目の儀式律法ですが、たとえば、モーセの律法には神殿で捧げられる動物犠牲に関する様々な掟があります。その他にも儀式や祭儀に関わる定めはモーセ律法の中心的役割を果たしています。しかし、そうした儀式律法に関しては、キリストの贖いの御業によって成就したと理解されますので、これについて、クリスチャンはもはや守らなければならない義務から解放されていると考えられています。

 しかし、三番目の道徳律法に関しては、今なおすべての人間はこれに従うことが求められていると考えられています。具体的にはイエス・キリストが要約してくださったように、神を愛することと、隣人を愛することです。この二つに要約される道徳律法を守る義務からは誰も解放されていないのです。

 さて、今上げた三つの区分をすべての律法に当てはめて考えようとする時に、とても難しい問題があることは事実です。スヌーピー大好きさんが上げてくださった男物、女物の服装に関する定めが、当時の人たちに道徳として認識されていたのか、それとも儀式や祭儀にかかわるものと認識されていたのか、必ずしも明確ではないからです。ただ、今日の教会で、男女の服装の区別に関して、申命記の規定を厳格に守らなくなったのは、それが道徳立法に関わる問題ではなく、当時の儀式や祭儀に関わる問題か、あるいは男が女装する異教の習慣に関わる定めであったと判断しているからと思われます。