2005年11月23日(水)「『主の日』とは?」 M・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はM・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。いつも楽しみに聴いています。

 さて、教会にはいろいろな教会用語と言うのでしょうか、キリスト教会だけで通じる言葉があると思います。きょうお聞きしたいと思ったのは、その一つ、『主の日』という言葉です。聖書を読んでいると『主の日』といえば、主イエス・キリストが再び来られる再臨の日のことを言っているように思います。旧約聖書の中では世の終わりや裁きの日のことのような言葉として登場しています。ところが、キリスト教会の中で『主の日』という言葉が使われると、礼拝を守る日曜日という意味に使われてることが多いような気がします。

 そこで質問ですが、いったいいつ頃から日曜日のことを『主の日』と呼ぶようになったのでしょうか。また、再臨の日や裁きの日としての『主の日』と日曜日の『主の日』とはどういう関係なのでしょうか。よろしくお願いします。」

 M・Yさん、メールありがとうございました。どの業界でもそうかもしれませんが、その業界や団体だけで通用する専門用語や特別な言葉というのがあります。その世界に暮らしている人にとっては当たり前の言葉であっても、その業界ではない人にとっては一体何のことを言っているのか分からない言葉はたくさんあると思います。キリスト教会も同じようにキリスト教独特の単語がいくつもあります。「主の日」という言葉を、全然キリスト教を知らない人が耳にしたら、いったいどんな漢字でそれを表現するのか、皆目見当がつかないかもしれません。「主の日とは聖日の事です」と言い換えたとしても、耳から音を聞くかぎりでは、余計に頭の中が混乱してしまうに違いありません。ふつう「せいじつ」という言葉を聞けば、「真心のある誠実な人柄」の「誠実」を思い浮かべるからです。「聖なる日」と書く「聖日」という言葉を頻繁に使うのはキリスト教会の中だけだろうと思います。

 さて、「主の日」というのは漢字で書くと、主人公の「主」に、日曜日の「日」と書きます。M・Yさんがおっしゃる通り、旧約聖書の中で「主の日」といえば、それば神の審判と関係がある言葉です。例えばイザヤ書13章9節にはこう書かれています。

 「見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。 大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。」

新約聖書の中では、「主」とはイエス・キリストの意味に使われはじますので、旧約聖書の中で「主の日」あるいは「ヤーウェの日」と呼ばれる日は、「キリストの日」(フィリピ1:10ほか)とか「主の日」(1テサロニケ5:2ほか)と呼ばれるようになります。

 ところがM・Yさんがご質問してくださったように、キリスト教会では日曜日のことを「主の日」という習慣もあります。いったい世の終わりの審判の日と日曜日の「主の日」とはどういう関係があるのでしょうか。クリスチャンにとって日曜日はいつも「裁きの日」ということなのでしょうか。

 実は、新約聖書には「主の日」を言い表す表現に二通りの言い方があります。ギリシア語の話で申し訳ないのですが、キリストの来臨の日、審判の日という意味での「主の日」というのは「ヘーメラ・キューリウー」と言います。それに対して、もう一つの言い方は黙示録1章10節出てきます。ヨハネがパトモス島にいたときに幻を見ましたが、そのときのことについて、こう書かれています。

 「ある主の日のこと、わたしは”霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」

 ここに出てくる「ある主の日」というのは先ほどの「主の日」というギリシア語とはまったく違った表現が使われています。ギリシア語では「キューリアケー・ヘーメラ」と言います。「キューリアケー」というのは「主のもの」とか「主に属する」という意味の言葉です。つまり「主に属する日」ということができます。残念ながら、この「キューリアケー・ヘーメラ」という言い方は、新約聖書の中でここにしか出てきませんから、正確な使われ方を議論するのは難しいかもしれません。ただ、明らかにキリストの再臨の日を意味する「主の日」(ヘーメラ・キューリウー)とは言葉も違えば使われ方も違っています。そして、おそらくこの場合の「主の日」とは「主に対して聖別された日」、つまり礼拝のために取り分けられた「日曜日」のことだろうと考えられます。つまり、新約聖書の時代に、すでに日曜日をさす「主の日」という言い方が出来上がっていたのではないかと思います。

 新約聖書時代のすぐ後に、いわゆる「使徒教父」と呼ばれる人たちの時代がやってきます。その頃書かれた文書の中に『ディダケー』と呼ばれる書物があります。だいたい一世紀末から二世紀初めの頃に書かれた書物です。この書物の中に「主の主の日」というくどい表現が出てきます(14章)。これは、ローマの世界で「キュリアケー・ヘーメラ」というと「ローマ皇帝の日」という意味に取られてしまうので、わざわざ、「主の」「主の日」という言い方をしたのでしょう。同じく二世紀初頭に書かれたマグネシアのクリスチャンへ宛てて書かれたイグナティオスの手紙には、「主の日」という言葉がユダヤ教の「安息日」と対比されて論じられています。これもまた初代の教会の人々が「主の日」を礼拝の日と捉えていた証拠だろうと思います。ですから、日曜日のことを「主の日」と呼ぶ習慣はすでに一世紀の終わり頃には出来上がっていたと考えられます。

 ではどうして、日曜日のこの礼拝の日を「主の日」と呼ぶようになったのかというと二つのことが考えられます。一つは旧約聖書のネヘミヤ記8章9節と10〇節に、「主にささげられた聖なる日」という表現が出てきます。礼拝の日というのは主に対して捧げられた聖なる日なのですから、それは主に属する日、つまり主の日であるという考えです。

 もう一つは、キリスト教会にとっては日曜日はイエス・キリストが復活された日です。キリスト教会がやがてユダヤ教の安息日ではなく、主が復活された日曜日に礼拝をも持つようになったのは、このキリストの復活ということがあったからです。そういう意味で、キリストが復活されたこの日を、やがて「主の日」と呼ぶようになったと考えられます。