2005年10月12日(水)「悪魔は奇跡も起こす恐い存在?」 大阪府 M・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのM・Tさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「朝、お弁当を作りながら聴いています。BOX190は、いつも難しい質問に丁寧に答えておられることに感心しています。
さて、質問ですが、ラジオ牧師の方が『悪魔も奇跡を起こす存在』と言っておられましたが、それを聴いてから、何だか怖くてなりません。神は全能であられるから、悪魔より強いんだと思うようにしてるんですが、何か悪いことは信じ込んでしまって、神様に在って大丈夫というよい約束は、心の底から信じきれない不信仰です。
このわたしの愚問にお答えください。」
M・Tさん、お便りありがとうございました。M・Tさんはわたしの前の時代からずっとこの番組を聴いてくださっている長いリスナーだと伺いました。番組を聴きつづけてくださっていること、本当に嬉しく思います。
さて、人間と言うのは、肝心なことを中々素直に信じることができない、そういう性質をもって生まれているように思います。そのくせ、あまり大切ではない事柄に心を奪われ、それに気持ちまで支配されてしまうということもしばしばあります。もっとも、何でもかんでも信じてしまうのも問題ですし、逆に何も信じないというのも問題です。信じるべきものを信じ、信じる必要のないものを信じない、その区別をきちんとわきまえ、その区別のとおりに信じたり、信じなかったりできれば、これは理想的な生き方です。その理想的な生き方を送ることができないというのは、まさに人間の弱さかもしれません。
ただ、わたしは疑いを持つということは、どんな場合にも間違っているとは思っていません。間違ったものを疑いもせずに受け入れてしまえば、その人生は悲惨なものになってしまいます。だからこそ、疑うことも大切なのです。しかしまた、何を疑い、何を信じるべきかという区別こそ、もっとも難しい問題で、その区別さえできれば、それに従って生きることことはそれほど難しくはないかもしれません。
さて、「悪魔も奇跡を起こす存在」という言葉を聞いて、必要以上の怖さを感じているM・Tさんに、どうやって平安な思いを抱いていただくことができるのか思い巡らせてみました。
まず、「悪魔も奇跡を起こす存在」という情報はとても情報の内容が不足しているとわたしには感じられました。これだけの情報では、様々な憶測を生み出し、悪い方へ悲観的な方へと想像が膨らんでいってしまいます。またこれだけの情報では、それを信ずべきことなのか信じるに足りないことなのか、判断することも困難です。
そもそも「悪魔も奇跡を起こす」とはどういうことなのでしょうか。
神が奇跡を起こすのは、とてもポジティブなメッセージを伴っています。従って、聖書では奇跡はしばしば「しるし」であると呼ばれています。奇跡そのものに意味があるのではなく、むしろ、その奇跡を起こすお方が、ご自分が神であることを、奇跡を通して語っていらっしゃるのです。ですから、聖書の世界では、意味のあるメッセージを伴って奇跡を行なうことができるのは神だけなのです。
それに対して、悪魔の起こす奇跡は、神の起こす奇跡と同じではありません。同じような奇跡でも、そこに伴っているメッセージや、奇跡を起こす目的が明らかに違っているのです。
ですから、申命記には、奇跡そのものを信じるのではなく、そこで語られるメッセージに気をつけるようにと警告しています。
「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。」(申命記13:2-4)
サタンの行なう奇跡は人の心を真の神からそらせるためのものです。そこに注意さえ払えば、サタンの行なう奇跡や不思議な業に恐れを抱く必要などどこにもありません。サタンのメッセージと神のメッセージを聞き分ける力さえあれば、恐れることなどないのです。しかも、イエス・キリストはヨハネによる福音書でこうおっしゃっています。
「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(10:4-5)
イエスの羊は羊飼いであるお方の声を聞き分けることができるのです。
また、悪魔の奇跡と神の奇跡の違いはそればかりではありません。神は奇跡を行なう際に、誰の許可も必要とはしません。神は神であられるがゆえに、自由に奇跡を行なうことができます。しかし、悪魔の奇跡やしるしはそうではありません。神の許しがなければ、何事も起こすことができないのです。これはちょっと混乱を招く言い方かもしれませんが、ヨブ記のことを思い出してみてください。サタンがヨブの信仰を試すために、ヨブの上に災難を降りかからせようとした時、サタンは神の許可を得てそうしたのです。そんなむごいことを許した神様は酷すぎるという議論をここですべきではありません。また、すべての悪の原因を神に押し付けるべきでもありません。それは人間的な発想から出てくることがらです。神の深いご計画の判断を人間の薄っぺらな憶測や推測で推し量るべきではないのです。ここで、知っておくべきことは、サタンといえども、所詮は神の大きな手のひらの上で、動いているに過ぎないということです。サタンはどんな奇跡を働かせても、神の許可がなければ、人間の髪の毛一本すら地に落とすこともできないのです。そのことを知っておかなければいけないのです。神とサタンは対等な存在では決してないのです。
パウロはローマの信徒への手紙8章38節39節でこう言っています。その言葉を結びの言葉としたいと思います。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」