2005年9月28日(水)「聖書が言う『死』とは?B」 神奈川県 K・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週も神奈川県にお住まいのK・Mさん、男性の方からいただいたご質問を引き続き取り上げることにします。もう一度、お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組をいつも楽しみに聞いています。

 さて、きょうは『死』についての疑問にお答えいただきたく、お便りをしました。この『死』についての問題は普段何気なく聖書を読んでいて納得しているようでも、いざ、頭の中を整理しようとすると良く分からないことがたくさん出てきます。

 例えば、創世記で『善悪を知る木の実を食べると必ず死ぬ』といわれていますが、木の実を食べたアダムもエバもそのときからでも随分長生きをしました。かえって、その後のほかの人々よりも長生きをしたくらいです。創世記が言っている『必ず死ぬ』というのはどういうことなのでしょうか。

 また、新約聖書では死が入って来たのはアダムの罪の結果であるといわれています。そして、このことは具体的には善悪を知る木の実を食べたことと関係しているようですが、聖書の中で死ぬのは人間だけではありません。動物も死にます。その場合、動物の死も人間の罪の結果なのでしょうか。

 さらにまた、キリスト教では『死とは肉体と魂の分離である』といわれますが、そうすると動物が死ぬのも、魂と肉体の分離なのでしょうか。それとも、人間だけが魂と肉体が分離する死を味わうのでしょうか。魂と肉体が分離する死は、罪に対する罰なのでしょうか。それとも、自然なことなのでしょうか。クリスチャンの死はやはり罰として与えられるものなのでしょうか。イエス・キリストは、ご自分を信じる者は決して死なないとおっしゃいましたが、そのすぐ後で「たとえ死んでも」とおっしゃっています。キリストを信じるクリスチャンは結局死ぬのでしょうか。死なないのでしょうか。

 こんな風に考えてくると、さっぱり分からなくなってきます。どうぞ、よろしくお願いします。」

 K・Mさんのご質問は、一回ではすべてお答えすることができませんでしたので、三回に渡ってしまいました。きょうで最後にしたいと思いますが、それでも、まだ十分にお答えできない部分があることをお許しください。

 さて、きょうは最後に書かれているご質問、「クリスチャンの死の意味」について考えて見たいと思います。

 まず、ヨハネ福音書の11章25節26節でイエス・キリストがおっしゃった言葉から取り上げることにします。そこにはこう書かれています。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 まず、先々週お話しましたが、聖書は肉体の死と霊的な死の両方を語っています。普通、一般の人たちが「死」と呼んでいるものは、肉体の死のことだけです。ですから、聖書が死や命について語るとき、どういう意味でそれを使っているのか注意しなければなりません。

 イエス・キリストがここでおっしゃっている「死んでも生きる」という場合の「死んでも」とか「生きる」とかいうのは、「肉体の死」か「霊的な死」か、あるいは「肉体的な命」か「霊的な命」か、その区別の難しい個所です。これはヨハネ福音書の特長であるともいえるのですが、ヨハネ福音書はひとつの単語をどちらの意味にも取れるようなあいまいな使い方をしているのが特徴です。

 組み合わせから単純に言えば、四通りの解釈しかありえません。つまり、「肉体的に死んでも、肉体的に生きる(甦る)」。「肉体的に死んでも、霊的に生きる」。「霊的に死んでも、霊的に生きる」。「霊的に死んでも、肉体的に生きる」。この四つの組合せしかありません。

 しかし、ここでイエス・キリストがマルタとの間で交わしている会話は、ラザロの肉体的な死を巡ってのことです。ですから、「死んでも」とイエスがおっしゃっているのは肉体的な死のことでしょう。では、イエスを信じる者は「肉体的に死んでも、肉体的に生きる」とイエスはおっしゃりたかったのでしょうか。その直前の文脈では、マルタが「終わりの日の復活は信じています」と言っていますから、それをイエスが繰り返しているとは思えません。マルタの信じていること以上のことをイエスはおっしゃりたかったのでしょう。とすれば、イエスがおっしゃりたかったことは、「イエスを信じる者だれでも、たとえ肉体的に死んだとしても、終わりの日の復活に先立って、霊的な命をもって生きることができる」ということでしょう。

 けれども、あとに続く物語、つまり、イエスによってラザロが甦らされた話と関連させて理解するならば、こうなります。

 つまり「イエスを信じるならば、たとえ肉体的に死んだとしても、終わりの日を待たないで、肉体の復活を体験することができる」と言う意味です。

 確かに、ラザロの場合はそのとおりでした。しかし、その解釈では、ここでのイエスの発言はラザロについてしかいえない特殊な発言となってしまいます。そうではなく、むしろ、ここではラザロの復活と言う具体的な奇跡によって、目には見えない霊的な命が、肉体の死を越えて、なおあり続けるのだという事を言いたかったのでしょう。そして、その命があるからこそ、終わりの日の復活も意味があるのです。

 イエス・キリストはさらに「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と続けておっでゃっています。この場合の「決して死ぬことはない」というのは、最終的には世の終わりの時の復活によって肉体の死を完全に克服するという意味に取れます。しかし同時に、既にキリストによって霊的に生かされるのですから、神の前には永遠の命をもって今も生きることができるという意味で、決して死なないということだとも理解することができるのです。

 さて、最後に、信者にとって「死」とはどんな意味があるのでしょうか。罪ある人間にとって、死は罪の支払う報酬です。クリスチャンにとっても死は依然として罪の支払う報酬なのでしょうか。

 パウロはコリントの信徒への手紙一の15章で、まったく違った観点から、クリスチャンにとっての肉体の死の意味を語っています。

 「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」とパウロは植物の種を引き合いに出して、クリスチャンにとっての死の意味をこう説明しています。「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」

 つまり、信仰者にとっての死は、肉体がむなしく土に返るプロセスなのではなく、栄光ある体に甦るためのプロセスなのです。そういう意味では、キリストを信じる者にとっては、肉体の死はもはや罪の支払う報酬なのではなく、復活の体に与るための栄光あるプロセスなのです。