2005年8月24日(水)「神様っているんですか」 匿住所匿名さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「わたしの質問に答えてくれますか。神様ってさ本当にいるんですか」
携帯からのメールですので、たったの一行の短いご質問ですが、メールありがとうございました。
誰でもが知りたいと思うこの疑問に、何をどう答えていったらよいのかいろいろと考えてしまいました。というのは、「神様は本当にいるのですか」という疑問を人が抱くのには、いろいろな背景が考えられるからです。
たとえば、人生の苦しみの中で、自分の存在の意義を確かめたくて、神様は本当にいるのだろうかと尋ねることがあります。あるいは、最初から無神論の立場にたって、神の存在を否定する目的でこの質問を投げかける場合もあります。あるいは、ほんとうに純粋で素朴な疑問として神様はいるのだろうかと考える人もいます。ほかにももっともっといろいろな動機でこの問いを投げかけることがあると思います。
神はいるかいないか、どちらかの答えしかありえないのですから、質問の動機が何であれ、その答えはイエスかノーか単純であるはずです。もし、ほんとうにそれだけのことを知りたいのであれば、クリスチャンのわたしに尋ねれば答えは「イエス」しかありえません。無心論者に聞けば「ノー」という答えしか返ってこないはずです。
もちろん、そんな答えで満足するはずのないことは十分承知しています。当然次に尋ねられることは「その根拠は何ですか」ということだと思います。
ところが、「その根拠は」と聞かれて、今まで誰もその根拠について誰もが納得いく答えを出した人はいないのです。神の存在を肯定する根拠も、神の存在を否定する根拠も科学的には不確かなのです。もし「その存在を証明できないものは、すなわち、存在しないのだ」という命題が正しいとすれば、神の存在を証明した人はいないのですから、神はいないことになってしまいます。しかし、逆に「その存在の否定を証明できなければ、すなわち存在するのだ」という命題の方がただしいとすれば、神の存在を否定することに成功した人はいないのですから、神は存在することになります。
何だかややこしい議論で、煙に巻かれたような気分になってしまったかもしれませんが、そもそも何故、神の存在は証明できないのか、と言うことをお話しなければならないと思います。
「あるもの」が存在するかしないか、ということを確かめるためには、当然ですが、その「あるもの」が何であるのかということを知っていなければなりません。それが何だかわからないのに、それがあるのかないのか議論することすらできないからです。
神が存在するのかしないのかということを問うためには、「神」とは何かということが当然、定義されなくてはなりません。しかし、神は人間によって定義されることができるものなのか、実はそのことからして問い直してみる必要があるのです。
聖書によれば、神は人間によって定義されたり、観察の結果見出されたりするようなお方ではありません。神がご自分を示されるかぎりにおいて…キリスト教の専門用語で言えば、神がご自分を啓示されるかぎりにおいて、神はいかなるお方であるのかを人間は知ることができるのです。しかし、それは神の全体像でもなければ、神の定義でもないのです。人間が神を知ることができるとしても、それはせいぜい一部分でしかないのです。この場合、正に有限は無限を入れることができないのです。
この聖書の主張が正しいとすれば、人間が「神とはこんなものだ」といって、その人間によって定義された神がいるかいないかをいくら議論しても全く意味のないことなのです。それは自分の思い描いた神がいてほしいという願望であったり、あるいは自分が思い描いた理想的な神に対する失望であったりするだけなのです。
「神様っているのでしょうか」という質問の背景に何があるのかということを番組の最初で取り上げましたが、実は「神様はいるのでしょうか」という質問が生まれる背景によって、すでに、その人のうちに「神とはいかなるお方であるのか」あるいは「あるべきなのか」ということが既に形作られているのです。そして、自分が生み出した神の定義によって、その答えも既にあらかた出来上がってしまっているのです。
ですから、もし、ほんとうに「神様がいるのかいないのか」、その答えを純粋に求めようとするならば、ほんとうの神様がご自分をどう語っていらっしゃるのか、それに耳を傾けることから始めなくてはならないのです。けれども、神がいるのかいないかを証明しようとしているのに、神がご自分をどう啓示されているかをまず尋ねなければならないというであれば、明らかに言葉の矛盾になってしまいます。神がご自分をどう啓示されていらっしゃるのかということを受け入れたならば、もはや神の存在の証明など、その人には必要でなくなってしまうからです。
つまるところ、神は証明の対象なのではなく、あらゆることの前提であって、その存在を証明される必要もなく、また、することもできないのです。
では、人は何によって神の存在を知るのかといえば、それは信仰によってだけ知ることができるのです。人は信じることによってだけ神の語りかけを受け取り、神の存在に触れることができるのです。
これは「愛」の存在を知るのと似ていると思います。誰かかがわたしのことを愛しているかどうかは、何かを数値化したり、数量化したりして知れるものではありません。わたしのためにいくらお金を使ったかということで愛情の存在は証明されませんし、わたしと一日に何回時間を共有したかということでも計ることはできません。愛の存在を確信するのは、ただ相手を信じることによってだけです。疑う人にはどんな愛も存在しないのと同じです。
神というお方も、信じる心がなければ、その存在に触れることも知ることもできないのです。
きょうのご質問がどんな背景からどんな動機で出てきたのかはわかりませんが、もし、ほんとうに神の存在に触れたいと心から願うのでしたら、ぜひ、聖書の中でご自分を啓示されていらっしゃる神様の語りかけに耳を傾け、信じる心でその神様からの語りかけを受け取ってください。そうすれば、あなたの疑問はもはや疑問ではなくなることと思います。