2005年8月17日(水)「死者への供え物について」 ハンドルネーム・アオさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・アオさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組を楽しく聞かせていただいています。

 きょうはちょっと聞くのが憚られることを質問させてください。

 わたしは一応クリスチャンなのですが、まだまだ分からないことだらけです。分からないことだらけなのですが、でも、もう何年も教会に通っているので、今さら聞けないことばかりです。

 その一つにお葬式でのことがあります。キリスト教ではお焼香をしないというのは知っていますが、それに代わるものとして、献花をするキリスト教のお葬式をよく見かけます。しかし、教会によっては献花すらいけないことだと言って、ほんとうに何もない、いつもの礼拝とあまり変わらないお葬式をするところもあります。今まで、あまり深く考えたことがありませんでしたが、この献花というのはどう考えたらよいのでしょうか。

 それから、仏教ではご遺体の枕元にお線香や果物や、個人の使っていたものなどがおかれているのを見かけますが、もちろんキリスト教ではそういう光景を見たことがありません。けれども、いくらキリスト教が死者礼拝に繋がるものを全部排除すると言っても、枕もとからそういうものをさっさと片付けてしまわないといけないものなのでしょうか。たとえば、亡くなる直前に誰かがお見舞いに持ってきた果物とか、読むかもしれないと思って置いておいた聖書とか、そのまま置いておけば、お供えに見えてしまうようなものは、亡くなった途端にどこかに片付けるようにすべきなのでしょうか。

 その人が生きているか死んでいるかで、そんなに簡単に気持ちが割り切れるものなのでしょうか。

 今さら聞けないことですが、お答えいただければ嬉しく思います。」

 アオさん、メールありがとうございました。長年のクリスチャンであっても、よく分からないことというのは、たくさんあると思います。分からないことがたくさんあると言うことが分かっているだけでも、ほんとうは他の人より一つだけたくさん知っているのかもしれません。

 ただ、分からないことそれ自体は恥かしいことでも何でもありませんが、分からないことをそのまま放っておくことは、結局何も分からなくしてしまう危険があります。そういう意味で、アオさんがご質問を憚らず勇気をもってしてくださったことをとても嬉しく思います。

 さて、人の死を悲しく思い、また人の死を悼む思いと言うのは、どんな人にでも共通していることだと思います。その気持ちを素直に表現することは、これはどんな人にとっても大切なことだと思います。

 ところが、人の死というのは人間の手の支配を超えたものであり、厳粛なものであるために、亡くなった人を葬る時に、どうしてもそこに何らかの宗教的な儀式が入ってくるということも、ある意味では自然な流れと言うことができると思います。

 ところがキリスト教のお葬式と言うと、してはいけないことがたくさんありすぎる。…お焼香もしなければ、死者に手を合わせることもしない、何だかつめたい感じがすると思う人もいるかもしれません。

 誤解のないように言いますが、キリスト教は、死を悲しんだり、死を悼んだりする人の感情を理解しない冷たい宗教なのではありません。人の死と言うことを厳粛な思いで受けとめる点では、どんな宗教にも劣ることはありません。

 ただ、人間が考え出したさまざまなアイデアが、神の恵みを厳粛に受けとめる機会を失わせる時に、断固としてそのアイディアに反対しているだけなのです。

 さて、一つ目の質問ですが、献花ということをどう考えるべきなのか、そのことについて考えてみたいと思います。アオさんのおっしゃる通り、キリスト教会の中にも、葬儀の時に献花を行なう教会と行なわない教会があることは事実です。行なう教でも、あえて献花という言葉を使わないで、わざわざ「飾花」と呼んでいるところもあります。

 献花を行なわない教会の挙げる一番の理由は、それが死者を礼拝する行為に繋がることを恐れるからです。キリスト教会では神だけが礼拝されるべきなのですから、それは当然のことといえるでしょう。

 しかし、献花を行なう教会では、葬儀の目的から考えてそれを行ないます。つまり、葬儀は遺体を丁寧に葬ることと遺族への慰めにあるからです。それで、お花でその場を飾ることは丁寧な葬りの一貫と考えるわけです。そして、そういう丁寧な葬りが遺族への慰めになるからと考えるからです。

 さらには、参列者が献花の列に並ぶことで、自然とご遺族の方たちに慰めや励ましの言葉をかける機会を作り出します。そういう実際的な効果ということからも、献花や飾花を行なう教会もあります。

 どちらの考え方が正しいのかという問題ではなく、もし、献花を行なうことで、参列が死者を礼拝したり、死者のために何かをしているのだと誤解する恐れがあるのであれば、そのような献花はすべきではないでしょう。

 もう一つの質問ですが、確かに、キリスト教では生きている人間と、命を失った亡骸との間には大きな区別を設けています。遺体は丁重には扱いますが、死者に食べ物やお花をお供えをしたりということはありません。生きている人に対して、お花や果物のお見舞いを持っていきますが、死んだ人へのお供えのためにそういうことはしないのです。

 ただ、アオさんがご質問されている事例は極端すぎるように思います。また、そんな極端なことは人間としての配慮からしないものだとわたしは思います。

 キリスト教では生きている人と死んでいる人の区別を厳密にするとは言いましたが、どこでその線を引くのかというのは、簡単ではありません。医者は心臓が停止すれば死を宣告します。もちろん、教会でもその時が人の死であると受けとめます。医者が死亡診断書を書いたのに、まだ生きているなどとおかしなことを言ったりはしません。

 けれども、この医学的な死という事実と、人が人の死を受けとめると言うこととは、必ずしも同時ではないと言うことです。人は人の死の事実を時間をかけて受けとめていくものです。玄関をあけてひょっこりいつものように帰ってくるような気持ちがだんだんと薄れ、もうこの地上にはほんとうにいないんだと死の事実を実感するまでには、やはり時間のかかるものです。それまでの間は、その人にとっては、気持ち的にはまだ完全になくなった人ではないのです。そういう気持ちを無視することがキリスト教の信仰に立つことなのか、それは全然違うことではないかとわたしは思います。亡くなった次の瞬間から枕もとを片付け始めるのではなく、残された遺族の方と共に人の死をゆっくりと受容し、共感することこそキリスト教の信仰ではないかと思います。