2005年8月10日(水)「人生を変えられますか?」 O・Dさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はO・Dさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を聴きながら、いろいろなことを考えさせられています。きょうは質問とも悩みとも言えないわたしのお話を聞いていただけたらと思いメールしました。

 わたしは平均寿命から言うと、もう人生の折り返し地点に差し掛かっています。この年になるまで独り身で、そのことを除けば周りから見ても大した悩みもなく、平平凡凡と暮らしているように見えることでしょう。

 しかし、ここに来るまでに何も悩みがなかったかと言えば、そんなことはありません。人並み以上に苦労を背負った時期もありました。具体的なことは一々ここには書きませんが、他人の人生を羨ましく思い、自分の人生を恨んだものでした。この不公平と思える人生を、できることならやり直し、変えてみたいと何度思ったことでしょうか。もちろん、今でもそれができるなら、自分の望む人生と交換してみたいと思います。

 しかし、『人生を変えられますか?』と質問してみたところで、かえってくる答えは想像がつきます。しかし、それでもこの質問を尋ねてみたいと思うのです。それがわたしの期待した答えではないとしても、納得できる答えであって欲しいと願いつつ、先生にこの質問をぶつけさせてください。」

 O・Dさん、メールありがとうございました。人生の折り返し地点に差し掛かっていらっしゃるということは、もうす40歳になろうかというお歳でしょうか。孔子の言葉に「40にして惑わず」と言う言葉がありますが、しかし、人生、いくつになっても惑うことの積み重ねであるようにも思います。人生について思いをめぐらせることがなければ、人は成長することもなく、また、自分の造り主である神にも出会うことがないように思います。

 きょうは自分と一回りもお歳の変わらないO・Dさんと、こうして人生について語り合うことができることをほんとうに嬉しく思います。

 先ずはじめに、O・Dさんのメールを読みながら、二つのお話を思い出していました。一つはリスナーの方から教えていただいた例話なのですが、「自分の背負っている十字架」についてのお話です。

 ある人が自分の背負っている人生の十字架が重すぎて、別のもっと軽そうな人の十字架と交換して欲しいと神に願ったそうです。神はその願いを聞き入れてくださり、その男が願ったとおり、別の人の十字架と交換してくださったのです。

 ところが、また何日かすると、その交換した十字架が重たく感じられてきたので、もう一度神に願って、他の人が背負っている十字架と今自分が背負っている十字架を交換したと言うのです。ところが、それもまたすぐに重たく感じられ、そんなことを何回も繰り返しているうちに、とうとう自分に一番背負いやすい十字架に出会ったのと言うのです。ところが、それは何と自分が最初に背負っていた十字架だったと言うお話です。

 結局、どんなに人生をやり直してみたところで、今背負っているもの以外のものを負い切ることはできないということではないでしょうか。それはまた、今、自分が背負っている人生は自分にしか背負いきれないと言うことでもあると思います。

 O・Dさんのメールを読みながら思い出したもう一つのお話は、ヨハネ福音書に出てくるニコデモのお話です。イエス・キリストは尋ねてきたニコデモにこうおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)

 このイエスの言葉の前提にあるのは、人には生まれ変わる可能性があるということです。もちろん、イエスとニコデモとの会話を読み進んでいくと明らかなように、文字通り母の胎内に戻って人生をやり直すと言うことではありません。そうではなく、イエスがおっしゃりたかったことは、人間の力や努力ではなく、聖霊によって生まれ変わると言うことです。

 これだけでは、何のことだか分かりにくいとは思いますが、少なくとも、聖書は新たに生まれ変わることについて教えていることは確かです。ただ、それは残念ながらニコデモが考えていたような文字通りの出直しでもなければ、O・Dさんが期待しているような人生のやり直しや交換でもありません。しかし、そのたった一度の生まれ変わりについて、聖書に耳を傾けてみる価値はあると思います。

 さて、この二つの話を思い出しながら、私自身が思ったことはこうです。

 実はこのニコデモとイエスとの会話の続きには、聖書の中でも最も有名な言葉が記されているのです。その言葉とはヨハネ福音書の3章16節と17節です。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

 人は文字通り母の胎内に戻って生まれなおすこともできませんし、自分の背負っている人生を誰かと交換することもできません。たとえできたとしても、生まれてくる自分が自分であり、人生を背負っている自分が自分である限り、前の人生と違うように歩めるかどうか、何の保証もありません。違ったように歩めたとしても、その結果が、期待した幸福で満足な生き方であるかどうか、それもわかりません。まして、まったく別人に生まれ変わってしまったのであれば、どうやって生まれ変わった自分に気がつくのでしょうか。

 聖書が教えている人生の歩みなおしというのは、先ほど引用したヨハネ3章16節と17節の視点に立って、自分の人生を受け入れ見直すことではないかと思うのです。

 神はその独り子イエス・キリストの命を差し出すほどに、わたしの人生を価値あるものと見てくださっているのです。わたしたちが自己評価して滅んでしまえばいいと思う自分を、神は御子によって救おうと願っていらっしゃるのです。この神の慈しみの中に生かされている自分に気がつくとき、自分に与えられた人生の意味深さを味わうことができるようになるのではないでしょうか。

 それは、ただ単に神の愛を妄想して安心感を得ているだけではないかと言うかもしれません。けれども、神の愛を受け入れず、自分の人生を疑い、一生恨んで過ごすとしたら、一体そこにどんな希望があるというのでしょうか。