2005年7月20日(水)「それでも赦されるのですか?」 三重県 Y・Tさん他
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は三重県にお住まいのY・Tさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「京都にある某教会の主管牧師である、K容疑者が信者の少女たちを暴行していた事件について、K容疑者は日本の法律により取り調べを受け、裁判にかけられ、罰せられるでしょう。
でももし将来、K容疑者が悔い改めれば、神さまは赦されるのでしょうか? 彼は天国に行くのでしょうか? 毎日朝晩仏壇の前で念仏を唱え、神棚を拝んで、額に汗して働いてきた平凡な日本人である私の父母は地獄行きなのでしょうか?」
Y・Tさん、メールありがとうございました。いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。
先ずはじめに、ラジオを聞いてくださっている方にお断りしておきますが、この番組は録音された番組です。どうしても録音のスケジュールの関係で最新の話題をすぐに取り上げることができないでいます。「何をいまさら古い事件を」と思われるかもしれません。そして、Y・Tさんをはじめ、この問題で疑問や怒りや痛みをメールに託して下さった方たちに対して、番組での応答がこんなにも遅くなってしまったことを申し訳なく思います。
この番組がすでに放送される時には、すでに3ヶ月以上も前の事件になってしまいますので、世の中の関心は薄れてきてしまっているかもしれません。あるいは、わたしがこの原稿を書いているときよりも、もっと色々なことが明らかになっているかもしれません。事件が思わぬ方向へ飛び火しているかもしれません。わたしは預言者ではありませんから、未来のことは何も予測できないという制約の中で、お話させていただくことにします。
さて、この事件に関してはいろいろな方からお便りをいただきました。それでいろいろと考えたり思わされたりしたことがあります。そのすべてをここで取り上げるわけには行きませんので、今回はY・Tさんの質問にそってお話を進めていきたいと思います。
今回の事件のように、キリスト教会の聖職者と呼ばれる人間が刑事事件を起こした場合、教会ではどう扱われるのか、そのことからお話したいと思います。
教会によっては、教会内部の問題をこの世の法律で裁くことを嫌うところもあるかもしれません。今回の事件でも、一部の新聞の報道によれば、被害者の方たちは最初自分たちの牧師を警察の手に委ねることに戸惑いとためらいを感じていたそうです。被害者の方たちから相談を受けた別の教派の牧師のアドバイスもあって、それで事件が明るみに出されたようです。
原則から言って、明らかな刑事事件を告訴・告発することは、どのクリスチャンにとっても許されていることです。まず、教会の内部で解決すべきだという考えを強要すべきではありません。もちろん、牧師や司祭が犯人の口から犯罪の事実を告白されたとき、それを警察などに通報できないことは守秘義務の問題ですから、話は別です。
では、教会としては、警察の手に委ねたところで事件が終わるのかと言うと、決してそうではありません。教会には教会の規則があります。といっても、教派によって全く規則を持たないところもありますので、これからお話することはすべての教会に通用していることではないことをお断りしておきます。
大抵の教派にはその教会自身に適用されるルールを持っています。そのルールのもとになっているのは、もちろん聖書です。ただ、聖書のほかに明文化された規則を持っているのは、聖書の解釈を明確にしておかなければ、好き勝手な言い分がまかり通ってしまうからです。それから、教会の規則には聖書それ自体には書かれていない事でも、手続き上必要な取り決めが明文化されています。
こうした教会の規則をカトリック教会では「教会法」という形で持っています。わたしが所属している改革派教会や長老派の教会では「教会規程」としてそれを定めています。特に教会の教職者を含めた役員や信徒の戒規に関しては「訓練規定」でそれを扱っています。そのルールに従って、教会は教会の裁判で必要な処分を決定します。
ところで、教会にこのような権能が与えられているのは、建徳のためであって、破壊のためではありません。あわれみをもって行使すべきであって、決し怒りをもってすべきでありません。教会員がみなキリストの日に清く傷のない者として神の聖前に立てるようになるためです。排斥するためではなく、真実の悔い改めを引き出し、キリストのもとへと復帰できるようにするためです。
そういう意味で、罪を犯した人が真実の悔い改めを言い表したことが明らかな時には、教会裁判によって科せられた戒規から公に復帰することができます。もっとも、その判断は戒規を科した教会裁判によって慎重になされることは言うまでもありません。
もちろん、今まで述べてきたことは、あくまでも組織としての教会のルールの問題です。その判断が、できる限り神の判断に近いことを願っていることは言うまでもありません。しかし、完璧に一致しているかどうかは、神様だけがご存知のことです。その人が本当に悔い改めているかどうかをご存知なのは神様だけです。ただ、神は真実に悔い改める者を赦してくださるという聖書の言葉は、疑い得ないものとして受けとめていることも事実です。
そういう意味で、Y・Kさんのメールにあった「もし将来、K容疑者が悔い改めれば、神さまは赦されるのでしょうか?」というご質問には、肯定的にお答えするよりほかはないだろうと思います。
では、2番目のご質問にはどう答えるべきでしょうか。決して、質問から逃げているのではありませんが、その最終的な答えは神様だけがご存知としか言いようがありません。わたしは福音の宣教者として立てられています。信仰を持たない人の誰かが、裁かれたり地獄に落ちることを望んで伝道しているわけではありません。ですから、わたしにできることは、どんな人であっても救いにあずかれるように、福音を述べ伝えること、そのことだけです。
わたしには、このことについての原則的な答えは言えても、一人一人の結末についての明確な答えは出せません。しかし、それでも最後の時には神ご自身がきっとすべての人について納得の行く答えを出してくださることだけははっきりと断言できます。その時が来るまで、キリストの福音を疑うことなく述べ伝えることが、すべてのクリスチャンに求められていることではないでしょうか。