2005年7月13日(水)「救いの条件は?」 T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「主の御名を賛美します。山下先生前回も番組で私の質問を取り上げて頂き有難うございました。先生の明解なお答え非常にわかり易いです。
さて、今回は前から疑問に思っていた救いの条件に関する質問です。
ヨハネ福音書に「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。しかしマタイ福音書にこう書いてあります。「私に向かって「主よ、主よ」というものがみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。」
それでは御子を信じるだけで入れるのか、神の御心を行う必要があるのか本当の条件とは何でしょうか?
これはキリスト者にとって一番大切な事なので是非番組で取り上げて頂けませんでしょうか? 宜しくお願いします。」
T・Hさん、お久しぶりです。その後お変わりありませんか。今回のご質問は救いの条件についてのご質問です。これは、これからキリスト教を信じようとしている人にとっても、また、もうすぐ洗礼を受けようかどうしようか迷っている人にも、さらにまた、もう既に信じて洗礼を受けた人にとっても、ぜひとも知っておいて欲しい大切な事柄ですね。
T・Hさんが引用してくださったように、聖書の中には一見対立しているように見える言葉と言うのはいくつもあります。信仰か行いかということに関して言えば、T・Hさんが挙げてくださった個所の他にも、もっと有名な個所があります。ご存知だと思いますが、宗教改革のスローガンの一つに「信仰によってのみ」という言葉があります。行いではなく信仰によってだけ救われると言う主張です。この主張のもとになっている有名な聖書の個所は、ローマの信徒への手紙3章と4章です。例えば3章28節にはこう書かれています。
「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」
このパウロの主張はローマの信徒への手紙1章から4章までをじっくりとお読みになると、なぜ行いではなく信仰なのかということが良く分かると思います。
ところが、同じ聖書の中には一見、これと全く反対のことを言っているような個所があります。宗教改革ルターが「藁の書簡」と呼んだ「ヤコブの手紙」の2章14節にはこう書かれています。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」
この個所だけを読むと、行いこそ救いにとって大切だと言うことを言っているようにも受け取れます。
さて、結論を先に言ってしまうと、人が救われるのは信仰によるというのが聖書の教えです。もっと正確に言えば「恵みにより、信仰によって」救われるのです。エフェソの信徒への手紙2章8節の言葉でいえば「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」ということになります。
なぜ、行いではなく、信仰なのかというと、先ほど挙げたローマの信徒への手紙3章によれば、人は罪を犯したために誰一人として神の義を満足させることができない状態だからです。つまり自分の力ではどうすることもできないのです。ですから、神は人間に何かを期待するのではなく神の側から一方的な恵みを与えて、人を救おうとされたのです。その手段はキリストが勝ち取った義を信仰によって受け取らせるというものです。つまり、信仰だけが救いに必要な義を受け取ることができる器であると言うのです。しかも、先ほど引用したエフェソの信徒への手紙2章8節によれば、この信仰によって救われると言うこと自体が、人間の力なのではなく、神から与えられる賜物なのですから、信じると言うことが人間の功績の一つとして数えられて救われるわけではありません。あくまでも神の恵みとして救いは無償で与えられるものです。そういう意味では、神の選びにまでさかのぼって救いと言うことを考えるならば、救いには何の条件もありません。
それでは、一見矛盾するように見えたヤコブの手紙2章14節はどう理解すべきなのでしょうか。実は、同じようなことはパウロ自身も言っているのです。ローマの信徒への手紙の3章と4章で、パウロは信仰の大切さを力説しました。そうすると、当然、信じてさえいれば罪の中に留まってもいいのではないか。むしろ、恵みが恵みとして輝き出るために、罪の中に留まった方がよいのではないか、というひねくれた考えも出てきます。そういう考えに対して、パウロはローマの信徒への手紙6章から8章で反論しているのです。信仰によって救われると言うことは、律法を無視したり、廃止したりすることではなくむしろ確立するものであるというのがパウロの考えです。パウロにとって、救われた者がなお罪の中に留まるというのは、言葉の矛盾なのです。
ヤコブが手紙の中で指摘していることもほぼ同じことです。信仰が神の律法と矛盾するとすれば、それは救いと言う言葉と矛盾してしまうのです。そもそも、ヤコブが手紙の中で批判しているのは、信仰箇条だけを暗記して、その信仰にたって生きようとしない生活のあり方です。「神は唯一だ」と言うことを暗記したり口にすることだけでは、ほんとうに唯一の神を信じたことにはならないというのがヤコブの主張なのです。けっして、行いを救いの条件として描こうとしているわけではありません。パウロは同じようなことをガラテヤの信徒への手紙5章6節で「愛の実践を伴う信仰」と表現しています。
信仰によってキリストの義をいただいたわたしたちが、信仰者としてどのように神のみ心に従って感謝のうちに生きるのかということと、救いの条件とを混同してはなりません。救われた者として神のみ心にそって清く生きることは当然のことだからです。もちろん、キリストが勝ち取ってくださった義のゆえにわたしたちが義とみなされるのは一瞬のことですが(一瞬に下される決定ですが)、その義にふさわしく実質的に清められていくのには時間が掛かります。パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言っています。すでにキリストによって捕らえられているからこそ、完成へと向かって歩むことができるのです。