2005年6月22日(水)「聖書が教える『傲慢、思い上がり』とは」 大分県 ハンドルネームSAKURAさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのSAKURAさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、お久しぶりです。

 実は今、前の仕事が一段落して新しい派遣先が決まるのを待っているところです。

 先生もご存知だと思いますが、この何年か職場の環境の悪さと激務のために、すっかり体調を崩してしまっていました。冗談抜きで文字通り身も心もボロボロな状態でした。

 病気になって、変ったなぁと自分でも思ったのですが、病気になる前は『転勤できないか?』と言われたら、バカ正直に前向きな回答をしたと思います。一昔前は、若さも手伝って何でも引き受けていたのと、実際には直属の上司が仕事の割り振りをコントロールしていたこともあって、つぶれてしまうことはなかったのです。

 しかし、この何年かはそういう性格のわたしを止めてくれる人は誰も居なかったということもあって、無理をしてでも仕事をしつづけたために、見事精神的に潰れてしまいました。

 若かりし頃から今回病気を経験するまで、わたしは思い上がっていたって言うのか、自己を過信してたって言うのか、そういうところがあったのかなぁ?と考えました。

 それで、今日電話で東京転勤を打診された時『今は病院にかかっているんで無理です』と返答した後『あれ?仕事を選んだりして、私って傲慢なんじゃぁ?』と心に浮かんだのです。

 はたして仕事待ち状態のわたしが仕事を選ぶのが傲慢なんだか、現在の自分に可能かどうか現実を見ずに『やります』って言うのが思い上がりなのか、わけわからなくなってきました。

 聖書では『傲慢』という言葉が、結構出てとと思いますが、神さまの目から見て、『傲慢』って何なのでしょうか。何か考えるヒントをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。」

 SAKURAさん、お久しぶりです。メールありがとうございました。この何年かのメールでのやり取りを思い返してみて、SAKURAさんがどれほど大変な時を過ごしてこられたか、改めて身につまされる思いがします。もし状況が許されるならば、このしばらくの時を休養の時と思って、もっとゆっくり休まれた方がよいのではないかと心からそう思います。しかし、また自分自身の生活のためにも、会社のためにも働かざるを得ないという厳しい状況もあるのだと思い、複雑な気持ちでメールを読ませていただきました。

 さて、今回のご質問は「傲慢」や「思い上がり」についてのご質問です。お便りの中にも出て来ましたが、これらの言葉は、戒めるべき態度として聖書の中に何度も警告されています。新共同訳聖書で「傲慢」という言葉を単純に数えただけでも52回出てきます。それらの個所を一つ一つ丹念に読んでみると、ある一つの傾向があることに気がつきます。それは「傲慢」について書かれているところでは、その前後に「神の戒めに従わない」とか「主の命令に背く」という内容の言葉が見られます。ですから、詩編の119編2節では「傲慢な者」のことを「あなたの戒めから迷い出る者」と言い換えています。

 つまり、聖書が問題にしている「傲慢」「高ぶり」「思い上がり」というのは、唯一まことの神に前に振る舞うの人間の尊大な態度、特に神の戒めや命令に対して自分の方が正しいとする高慢な思いや態度を問題とする時に使われる言葉です。もっと端的に言えば、自分を神とするほどの高ぶった思いや態度を、聖書は傲慢と呼び、これを戒めているのです。テサロニケの信徒への手紙二の2章には世の終わりの時に現れる「不法の者」、「滅びの子」のことが記されていますが、この者についてパウロは「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」と述べています。究極の傲慢さとは、まさに自分が神であると宣言することです。

 そういう意味では、SAKURAさんが仕事のことで今悩んでいる事柄、能力の限界を超えて仕事を引き受けるのが傲慢なのか、それとも、仕事をえり好みすることが傲慢なのか、という問題とは少し違うような気がします。

 もちろん、そこには聖書が問題としている「傲慢」に発展するような芽が潜んでいると言うことも否定することはできません。何でもこなせると言う過信は、それも度が過ぎれば、自分をスーパーマンのように思い込む傲慢に発展することもあるでしょう。あるいは、自分は神と同じように、生きるために何の働きもする必要がない、労働なんて意味がないというのであれば、それは「傲慢」といわれても仕方ないでしょう。

 しかし、いずれにしても、今SAKURAさんが仕事のことで思い悩んでいることと、聖書が問題にしている「傲慢さ」とは違うと考えた方がよさそうです。

 むしろ、SAKURAさんにとって今大切なのは、自分の能力についての判断…それは心と体の健康も含めて、自分が仕事をこなせる能力がどれくらいあるのかという正直で正確な判断力だと思います。自分をスーパーマンのように過信しすぎれば、それこそ聖書が戒める「傲慢」の域に足を踏み入れることになるでしょう。

 また、確かに、世間の人たちは、現に仕事がないのに仕事をえり好みしている人を見れば、「思い上がっている」とか「身のほど知らずだ」などと言うかもしれません。あるいは「傲慢」という非難よりは「わがままで怠け者だ」という言葉を浴びせるかもしれません。しかし、自分にできることとできないことは、誰にでもあるのですから、自分の能力によってできる仕事とできない仕事を取捨選択することは、決して傲慢でもわがままでも怠惰な者でもないのです。

 テサロニケの信徒への手紙二の3章には怠惰な者に対する戒めの言葉が出ていますが、そこでの怠惰な者とは「働こうとしない者」のことであって、働く意志があっても働けない人のことではありません。さらに、そこで言われている怠惰な者とは、働く意志がないのに、余計なことだけはする暇と力のある人のことです。

 どうか、SAKURAさんが、様々な思い煩いや惑わしから解放されて、自分自身の体力と能力に見合った仕事を選び取り、その仕事をもって貢献できることができるようにとお祈りいたします。