2005年6月15日(水)「何故裏切り者を?」 ハンドルネーム 銀さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・銀さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。
さて、早速ですが、質問したいことがあります。それはずっと前から気に掛かっていた疑問なのですが、イスカリオテのユダのことを考え出すと、頭が混乱してきてしまいます。
たとえば、最近よく耳にするメッセージに『人は誰でも愛されるために生まれてきた』という言葉があります。この言葉はわたしにとってもとても励みになる言葉です。
しかし、聖書を読むと、イエス・キリストはイスカリオテのユダのことを『生まれてこなかった方がよかった』といっています。『人は誰でも愛されるために生まれてきた』といっても、イスカリオテのユダだけは例外と言うことでしょうか? この世界でイスカリオテのユダだけがたった一人の例外だとしたら、イスカリオテのユダの人生ってなんだったのだろうと思いたくなってしまいます。キリストを裏切るために生まれ、そんな大きな役を担わされて、しかも『生まれてこなかった方がよかった』といわれる人生って一体なんなのでしょうか。
また、イスカリオテのユダだけが、実は例外なのではないのではないかと考えはじめると、それもまた恐ろしくなってきてしまいます。結局は自分もキリストを否定し裏切るために生まれてきたのではないかと思い始めると、そこから抜け出せなくなってきてしまいます。
さらに、ペトロのことを考えると、この混乱に拍車がかかります。ペトロだってイエスのことを三度も否定したのに、なぜ、ペトロは赦され、ユダは赦されなかったのでしょうか? 結局わたしはペトロをあのように扱ってくださった恵みの神を信じてよいのでしょうか、それとも、ユダをあのように扱った神の前に恐れおののきながら生きていくべきなのでしょうか。ユダのことを考え始めると思考の迷路に陥ってしまいます。
先生のお考えをお聞かせください。よろしくお願いします。」
銀さん、メールありがとうございました。いつも番組を聴いていて下さって嬉しく思います。
確かに、イスカリオテのユダのことに関しては、いい意味でも悪い意味でも、古今東西、多くの人が関心を寄せて来ました。「裏切り者」というレッテルを貼られたユダは、例えば、キリスト教美術の中では特別な描き方がされました。数多く残された最後の晩餐を描いた絵画では、決まってイスカリオテのユダだけがテーブルの反対側に座らされて来ました。もっとも、有名なレオナルド・ダ・ビンチの描いた「最後の晩餐」はイスカリオテのユダを他の使徒たちと同列に置きました。これは、それまでの時代の描き方から言えば例外的です。しかし、そういうユダの描き方も裏切り者のユダに対する関心の現れであるのかもしれません。
イエス・キリストには十二人のお弟子さんがいましたが、例えば、タダイやバルトロマイについて書かれた本はほとんど見当たらないとしても、ユダについて書かれた本は簡単に捜し出すことができます。ひょっとしたら、ペトロについて書かれた本に次いで多くの人が関心を寄せているかもしれません。
そういう意味で、銀さんがイスカリオテのユダについていろいろと考えをめぐらせてしまうのは、ほかの多くの人たちと少しも違うところがないといってもよいかもしれません。
さて、イスカリオテのユダが果たして最終的には赦されるのかどうか、と言うことについては、残念ながら誰も断定できないのではないかと思います。もし、断定的に言うことができるのだとすれば、それは神様ご自身をおいて他にはいらっしゃらないだろうと思います。
しかし、聖書に書かれたことから、ユダについていくつかの推測はできるのではないかと思います。それにはまず、銀さんが上げてくださったペトロとの比較からスタートして考えていくのがよいのではないかと思います。
銀さんがおっしゃる通り、ペトロとユダを比較してみるのはとても興味深いことです。確かに聖書はペトロに関しては「裏切り者」と言う言葉を使っていません。それは、ペトロがイエスを知らないと否認はしたけれども、裏切りはしなかったからでしょうか。厳密に言えば、確かにその違いは大きいかもしれません。しかし、イエス・キリストはこんなことをおっしゃったことがあります。
「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10:33)
このイエスの言葉から言えば、ペトロのしたことは、大変大きな罪と言えるでしょう。それにも関わらず、どうしてペトロとユダのそれからの歩みには大きな違いが出てきたのでしょうか。
一つ確実にいえることは、ペトロは大きな罪を犯しましたが、それを赦してくださる神の慈しみに最後まですがりついていた言うことです。イエス・キリストは、たとえ何度罪を犯したとしても、悔い改める者には7の70倍までもその罪が赦されるとおっしゃいました。ペトロはその言葉を最後まで信じていたのでしょう。
しかし、ユダはそうではありませんでした。ユダは自分自身を神の慈しみに委ねることを拒んでしまったのです。神が赦すのに先立って、自分で自分を裁いて自殺することを選んでしまったのです。これはペトロとユダの大きな違いです。
もちろん、自殺をする人のすべてがユダと同じだと言っているのではありません。そんなことを言うつもりはありません。しかし、ユダに限って言えば、何度も与えられた悔い改めのチャンスを自分から放棄してしまったということは、とても残念なことでした。
では、イエス・キリストは、どうして最後の晩餐の席上で、ユダのことを「生まれてこなかった方がよかった」とおっしゃったのでしょうか。
このイエスの言葉は注意して読まなければなりません。正確を期するためにその部分を聖書から引用してみます。マルコによる福音書の14章21節です。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
注意しなければならないことは、イエス・キリストは決してイスカリオテのユダの名前を挙げて、「生まれなかった方が、その者のためによかった」とおっしゃっているのではありません。それが誰であるのかを伏せたまま、イエスを裏切る者のことを言っているのです。確かにイエスを裏切る者は幸せだとはいえないでしょう。裏切るために生まれてきたのだとしたら、その者は生まれなかった方がよいといえるでしょう。しかし、イエスはユダがそうだとは言っていないのです。ユダは裏切り者でありつづけることも、また、悔い改めて裏切り者の汚名を返上する自由もあったのです。そういう意味で、ユダだけは愛されるために生まれてこなかったなどとイエス・キリストはおっしゃっていないのです。