2005年6月8日(水)「働かざるもの食うべからず?」 千葉県 S・Iさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつも番組を興味深く聴かせていただいています。
きょうは、鬱病の友達から問題をふられて『ウーン』と考え込んでしまう事態となり、先生にお尋ねしてみようということでお便りしました。
『働かざるもの食うべからず』というのが、わたしたちのやり取りのテーマでした。
障害者を支援する法律も日本でも年を追うごとに整備されてきているようですが、今回送られてきた障害者団体のミニコミ誌をわたしに差し出して、鬱病の友達は言いました。
『年金制度の改悪、介護保険制度の見直し、障害者自立支援法案、皆さん支援するから働いてくださいよ。国が全部面倒見るのは無理ですから、自立しなさいと言ってるんだ! 聖書にも書いてあるけど、働かざるもの食うべからず、というわけさ。でも、鬱病で働けない者にも食する権利はあると思うんだ。あなたはどう思う?』
そう言われて『ウーン』と考え込む以外ありませんんでした。すべての人に太陽が昇るように、雨が天から降るように、すべての人にパンが与えられてもいいはずだ、と思うのです。ましてや、サボっているわけではなく、病気で働けないのですから、食する権利は十分持ち合わせているはず。聖書はどのように教えていますか、よろしくお願いします。」
S・Iさん、いつも番組を聴いていて下さって嬉しく思います。そしてまた、久しぶりにご質問を寄せてくださってありがとうございました。
この世の中を見ていると不公平に思えることがたくさんあります。一人一人生まれた時からもっている才能が違っていたり、育つ環境が違ったり、突然の不幸に襲われる人がいるかと思えば、思いもよらぬ幸運に恵まれる人もいます。健康の度合いも一人一人が自分で好きなように選ぶと言うことはできません。そうしたことは仕方がないとしても、そのことが原因で、食べるにも困ってしまう、人間としての最低限の尊厳を維持することもできなくなってしまうというのでは、おおよそ公平な社会とはいえません。そういう現実を見ていると、法のもとにすべての人が平等だと言う理念も、空言のように聞こえてくるかもしれません。
さて、あまりにも大きな内容のご質問ですので、簡単に答えることはできないかもしれません。そこでまずはじめに、お便りの中でも引用された「働かざるもの食うべからず」という言葉から取り上げたいと思います。この言葉の引用ですが、聖書の言葉とちょっと違っているように思います。おそらくテサロニケの信徒への手紙二の3章10節のことをいっているのでしょう。そこにはこう書かれています。
実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
まずここでパウロが言っていることは、「働けない者」のことではありません。病気のために、障害のために、あるいは高齢のために、働くことが出来ない人はたくさんいます。そういう人のことをパウロは念頭に置いているわけではありません。
また、働くことの対価として金銭的な報酬をもらっているかいないかと言うことも問題になっているわけではありません。家事や育児はそれによって給料がもらえるというわけではありませんが、主婦は「働かない者」なのではありません。
ここでパウロが言っているのは「働きたくない者」のことです。「働く意志のない者」といってもよいでしょう。もちろん、心の病気のために働く意欲を失っている人のことを含めて考えているのではないはずです。
具体的にパウロがあの言葉を述べたのは、そのすぐ後でもパウロが言っているように、テサロニケの教会には間違った終末論を信じているために「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者が」いたということなのです。つまり、余計なことはできるだけの健康や能力もあるのに働こうとする意志のない人たちなのです。
これだけをお話しただけで、疑問の半分はすっきりしたのではないでしょうか。パウロは「働かざる者食うべからず」などと言っていないのです。その言葉をパウロの言葉と混同してはなりません。
けれども、働く意志はあっても働けない人が、パウロの言葉には含まれていないということが分かったとしても、職がなければ食べるのに困ってしまうのは事実です。よほどの資産家であれば、働けなくても食べるのには困ることはないでしょう。しかし、そういう人はほんの一握りの人です。
では、働く意志はあっても、いろいろな事情で働くことができない人たちはどうしたらよいのでしょうか。聖書はどう教えているのでしょうか。
一つには聖書には弱い立場の者たちを支える、いくつかの教えがありました。たとえば、旧約聖書では貧しい者や寄留者が食べることができるように、畑の隅まで刈り尽くしたり、落穂を拾い集めないように教えられています(レビ19:9)。また、レビ人、寄留者、孤児、やもめに施しをすることは、当然の戒めと考えられていました(申命記26:13)。
イエス・キリストも様々な場面で施しについて教えています(マタイ6:3以下、マルコ10:21、ルカ12:33)。
つまり、聖書は、才能も健康も環境も資産も人それぞれに異なっているとしても、その与えられた賜物を用いて互いに仕えあうことを求めているのです。これが聖書の基本的な教えであると思います。
あの有名なマザーテレサの言葉にこういうのがあります。
「貧困をつくるのは神ではなく人間です。わたしたちが分かち合わないからです」
そのとおりだと思います。
人は誰でも人間として生きる権利を持っています。そして、与えられた能力に応じて分かち合うことを通して、その権利が実現することを神は望んでおられるのです。