2005年6月1日(水)「やっぱり世の中お金じゃない?」 匿住所匿名希望さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿住所匿名希望の方からのご質問です。メールでいただきました。お便りをご紹介します。
「初めてメールを送ります。やっぱり、きれい事を言っても世の中はお金じゃないでしょうか? お金がないと立派な教育も受けられないし、世の中で活躍するのが難しいと思います。愛ですべてが解決できるとはとても思えません。聖書ではどのように教えているのでしょうか?」
メールありがとうございました。いただいたメールを読んだときに、思わずテレビコマーシャルの歌が頭をよぎりました。(「よ〜く考えよう。お金は大事だよぉ〜♪」)
いつだったか、あるテレビ番組で「お金と愛、どちらが大切か」というインタビューをしているのを見たことがあります。インタビューの結果どちらの答えが多いのかとても興味ある番組でした。もっとも、アンケートの対象は80歳以上の女性で、「結婚相手に本当に必要だと思っているのはお金と愛どちら?」という質問でした。
結果はというと、54%の人が「愛」と答えました。この「愛」という答えは、ご質問のメールにもあったただの「きれい事」なのでしょうか。お答えになった方たちは長い人生経験の持ち主ばかりですから、そうそうきれい事ばかりではないだろうと思っています。ただ、アンケートの結果が「愛」と答えた人がわずかに多かっただけで、「お金」と答えた人をはるかに引き離していないことも興味を覚えました。「愛」という答えが最も多かったのは九州沖縄の方たちで65%、逆に関西では65%の人が「お金」と答えました。本音と建前を上手に使い分ける日本人ですから、この差はあまり実質的ではないかもしれません。
ところで、ご質問を読みながら、もう一つ考えたことがあります。
「世の中やっぱりお金だ」と人が感じるときというのはどういうときなのでしょうか。あまりお金に苦労をしていない人は、「世の中お金だ」とは思わないでしょう。お金のことで嫌な思いや惨めな思いをした人ほど、身にしみて「世の中お金だ」と思うのではないでしょうか。そういう意味で、ご質問のメールを読みながら、この質問の背後にあるものをいろいろと思い浮かべました。きっとお金のことで辛い経験がおありなのではないかと想像しました。もちろん、ご自分がそういう経験をしたというのかもしれませんし、あるいは、身近な親しい人がお金で苦労するのを助けることができなかったという苦しみを経験されたのかもしれません。
もっとも、お金で苦労したことのあるすべての人が「愛よりもお金が大事だ」と考えるわけではないでしょう。「愛」の暖かさや素晴らしさに触れたことがある人は、お金の苦労はあっても「愛」が大切と答えるのではないでしょうか。
さて、聖書はお金についてどういっているのでしょうか。確かに、富やお金についてのネガティブな教えを拾い上げてくることは簡単です。例えば第1テモテ6章10節に「金銭の欲は、すべての悪の根です」という言葉があります。あるいは、旧約聖書箴言11章28節は「富に依存する者は倒れる」と教えています。
しかし、同じ箴言22章4節は「主を畏れて身を低くすれば 富も名誉も命も従って来る」と教えています。聖書には富や金銭についての否定的な言葉と同じくらい、富は祝福のしるしであるという考えもたくさん出てきます。安易に富や財産を否定して、禁欲的に生きる生き方だけが聖書の教えではありません。
そこで、イエス・キリストの二つの言葉が思い出されます。一つは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言う言葉です。これはマタイによる福音書6章24節の言葉です。
聖書は富の存在を悪いものとして否定しませんが、しかし、富は仕える対象ではありません。富が自分の主人になり、富に使える奴隷となってしまったのでは、人間らしい生き方はできないのです。神に仕えることを離れて、富と接することはできないのです。
イエス・キリストの含蓄あるもう一つの言葉は、ルカ福音書12章15節です。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」
これは当たり前のことなのですが、ふと人間が忘れてしまっていることでもあるのです。確かにお金があれば食べることも、着ることも、また住む家の心配もないかもしれません。病気になっても高度な医療を受けることができます。しかし、いくらお金があっても命はお金では買えないのです。
では、これらの点に十分注意を払えば、豊かな富は祝福となるのでしょうか。確かに、神に仕える生き方を続けるのであれば、富は祝福となるでしょう。
では、神に仕える生き方とはどういう生き方でしょうか。それは、神を愛し、隣人を愛することです。つまり、愛がなければ、富も祝福にはならないのです。
パウロはコリントの信徒への手紙一の13章3節でこう言いました。
「全財産を貧しい人に施したとしても、愛がなければ何の益もない」
結局のところ、お金を手にしたときに、そのお金を使ってどうやって隣人を愛するかのか、また、お金が足りない中で、どうやって隣人愛を貫くか、それが大切なのではないかと思います。
「愛かお金か」という対立でものを考えるのではなく、愛をもって生きるときに、富や才能などすべてのものをどのように愛の目的に従って治め、用いていくかということが問題なのではないでしょうか。
お金がないことで苦労や惨めな思いをしている人は確かに世の中にいます。その人たちに「愛さえあればお金なんて重要ではない」などというのは、もっとも愛のない言葉です。「愛よりもお金が大事だ」と思わせてしまう世の中こそ、愛のない世の中を証明しているのです。愛のない世の中でお金の大切さだけが説かれるとしたら、それはもっと人を惨めにさせることになるのではないでしょうか。