2005年5月11日(水)「輸血はしてはいけないのですか?」 神奈川県 K・Sさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのK・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。先日、キリスト教のある宗派では、輸血は聖書の教えに反しているということを教えていると聞きました。それで、実際に手術の時に輸血を拒否すると言うこともあったそうです。
そこで、二つの質問があるのですが、聖書の教えにほんとうに輸血をしてはいけないということが教えられているのでしょうか。
また、もしそれが聖書の教えではないとしても、それが聖書の教えだと信じている人の信仰を医者は重んじるべきなのでしょうか。よろしくお願いします。」
K・Sさん、お便りありがとうございました。ご質問の中に出てきたキリスト教のある宗派というのは、おそらく「エホバの証人」とか「ものみの塔」といわれている人たちのことだと思います。残念ながらキリスト教会の側からすると、その団体は正統なキリスト教会だとは思われていません。もちろん、エホバの証人の人たちから見れば、いわゆるキリスト教会はほんとうのキリスト教ではないようですから、自分たちが既存のキリスト教の一派だとみなされることは心外なことだろうと思います。
さて、さっそく、ご質問の第一点から取り上げてみたいと思います。
まず、「輸血」というものが、聖書の教えに反するものであるのか、それとも、許されるものであるのか、この点について考えてみたいと思います。
当然のことですが、「輸血」という言葉も技術も、聖書そのものには出てきません。ですから、聖書が輸血について直接語っている個所は、当然、聖書のどこにも出てきません。ですから、輸血の是非について、聖書の考えを引き出してくるためには、ある種の解釈を施さなければならないということになります。
そこで、輸血は聖書の教えに反すると考える人たちは、創世記の9章4節やレビ記の17章10節から14節を引用して、輸血は聖書によって禁じられていると考えます。それらの聖書の個所で教えられていることは、肉を血を含んだまま食べることをしてはならない、ということです。そして、その理由として挙げられていることは、血液は命そのもの、あるいは命の象徴であるからです。
これらの聖書の個所から、輸血が聖書によって禁じられた行為であると結論づけるためには、聖書が禁じている「血を食べる」という行為と他人の血液を体内に入れる行為である「輸血」とが同じ行為であると解釈しなければなりません。
私自身の聖書の読み方からすれば、「血を食べる」と言う行為と「輸血する」という行為を同じものと考えるのは、あまりにも拡大解釈のように思います。
それから、聖書の解釈をめぐっては、もう一つの問題があります。それは、血を食べることを禁じる旧約聖書の教えが、果たして新約時代にも有効な掟であるかどうかという問題です。プロテスタント教会では、旧約聖書の戒めや掟のうち道徳に関わる教え…いわゆる道徳律法に関しては永久に変ることがない教えであると理解しています。従って、新約時代にも「隣人を愛すること」は変わることがない教えとして重んじられています。それに対して、儀式に関わる戒め…いわゆる儀式律法と言われているものに関しては、キリストによってすべてが成就したと理解して、クリスチャンはもはやそのようなものに縛られないと理解しています。従って、クリスチャンは神殿で動物犠牲のささげものをしたり、特定の動物を食べない、と言うようなことを今はもう守ったりはしません。たとえば、クリスチャンは豚肉やタコも食べます。
同じように、肉を血を含んだままで食べる事が禁じられているのも、旧約時代の儀式律法に属することと考えて、多くのクリスチャンは、厳密にそのことを意識しないで食生活を営んでいます。気持ちの問題として血の滴るレアステーキを食べない人はいるかもしれませんが、それは食生活の問題であって、旧約聖書の教えを意識していると言うわけではありません。
従って。たとい旧約時代の人々が輸血をモーセの律法に従って禁止したとしても、その儀式的な律法が新約時代のクリスチャンに適用されるとは思いません。
さて、もう一つの質問について取り上げてみたいと思います。もう一つの質問は、輸血が聖書によって禁じられているかどうかは別として、禁じられていると信じる人の考えを医者は重んじるべきかどうか、という問題です。
これは難しい問題を含んでいます。法律的にものを考えるとすれば、医者が手術をしても刑法の傷害罪にならないのは、患者の同意があるので違法性が阻却されているからだ…つまり、違法ではないからだと論じられています。もし、医者が患者の同意を取らずに、手術をした場合には、傷害罪に問われることもあるでしょうし、手術の結果として患者を死に至らしめた場合には、傷害致死罪にも問われてしまうでしょう。
もっとも、この法律の理論に対して、医者の立場からは当然、反論もあります。医師の立場から見て必要な治療行為に関しては、法律的に別に論じるべきだと言うものです。しかし、法律家は必要な治療行為であるかどうかを判断できないことですから、結局は患者の同意があるかないか、それが重要な鍵であると考えます。
とすれば結局は法律的には医者と言えども、患者の同意がない限り、輸血を行うということができないことになります。
では、このことを法律論ではなく、宗教や信仰という問題として考えた場合どうなるのでしょうか。おそらく、どんな宗教にとっても生と死の問題は重要な問題です。特殊な宗教は別として、「生きる」ということは大きな前提となっています。従って、可能な限りで医学の力に頼ることは信仰に反することとは考えられてはいません。しかし、どのようにして、健康を回復し、生命を維持するのかという判断は、個人の信念や信仰にとって重要な問題であることも事実です。必ずしも、命を延ばすために医学的な処置を受けることが、信仰的な意味での「命」を大切にすることと同じ事ではありません。従って、どんな人であれ、自分の宗教的な信念や良心に反してまで、医学的な治療行為を受けなければならないということはないのだといえます。
本人の信仰に基づいて、本人が輸血を拒否する場合には、それでよいのだと思いますが、しかし、自分の子どもや配偶者が直接同意できない場合に、その親なり配偶者が自分の信仰に基づいて輸血を拒否できるか、という問題はまた全然別の問題ではないでしょうか。