2005年4月27日(水)「宗教的儀礼について」 千葉県 N・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのN・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつも興味のある問題をわかりやすく解説してくださり、楽しみに番組を聴いています。
さて、クリスチャンとして前からずっと悩んでいたことがありました。それは仕事上の付き合いから、宗教的な儀礼に参加せざるを得ないときにいったいどうしたらよいかと言うことです。具体的には社葬などの場合です。
もちろん、お葬式の大切さは分かっていますので、これまでも仕事上の関係者の方たちの葬儀にはできる限り参列していました。大抵は仏式の葬儀でしたのでクリスチャンとしての宗教的な良心に反することがあれば、その時々に応じて自分なりに対処してきたつもりです。
しかし、自分の勤めている会社で社葬を行う場合はどうなるのでしょうか。今までそういう経験がないので、具体的に問題に直面したというわけではないのですが、個人の場合と違って、会社の職員としていろいろと関わらざるを得ないことが多いでしょうから、宗教的な問題をうまく切り抜けられるか、とても心配です。その場合、職務と割り切って、言われるがままに動くべきなのでしょうか、それとも、クリスチャンの信仰を全面に押し出して、出来ないことは出来ないとはっきりした態度をとるべきなのでしょうか。
こんなことを今から悩んでいるのはおかしな話かもしれませんが、先日、旧約聖書を読んでいましたら、ヒントになるような個所を偶然発見しました。スリヤのナアマン将軍の話です。彼は異邦人でしたが預言者エリシャとの出会いによって、まことの神を信じるようになった人です。しかし、彼の主君がリモンの神殿で宗教的な儀式を行う時に、ナアマンも付き合わなければなりません。自分がリモンの神殿でひれ伏す時に、それを赦して欲しいと預言者エリシャに言うと、エリシャは時『安心して行きなさい』と答えたのです。
やはり、異邦人社会に生きる者にとっては職務としてやむをえない場合には、異教の宗教的儀礼に参加することも許されると言うことでしょうか。この個所の解釈について、解説よろしくお願いします。」
N・Yさん、お便りありがとうございました。N・Yさんの悩みは、日本で生きるクリスチャンにとって誰もが多かれ少なかれ悩んでいる問題ではないかと思います。一方ではクリスチャンとして自分の信仰に反するような他の宗教的な儀式には参加すべきではないと言うことは分かりきったことです。クリスチャンは二人の主人に兼ね仕えることはできないのです(マタイ6:24)。
しかし、他方では隣人を愛することが命じられているわけですから、クリスチャン以外の人との関わりを一切断ち切って生きることは、神の御心に反することです。また、実際、この世との関わりを一切拒否して生きることは不可能なことです(1コリント5:10)。
この二つの事柄、クリスチャンとしての宗教的純粋性を保つと言うことと、異教の世界に生きる隣人を愛することということの二つが両立できれば一番よいこというまでもありません。しかし、具体的なケースによってはそれがとても難しい場合もあります。そこに一人一人の信仰的な戦いや葛藤が生まれます。
もっとも、N・Yさんの場合、個人的な生活の中での問題には、今までこの二つの事柄をうまく両立させて来られたように思います。問題は、隣人愛という人間相手のことではなく、組織の中での問題をどう考えたらよいのかということです。会社組織が宗教的に中立であれば、問題はないのですが、しかし、人間の作る組織ですから、様々な場面に宗教が入り込んで来ることは避けられません。仕事の無事を祈願して、神社にお参りに行くことを命じられるかもしれません。あるいはN・Yさんの挙げられた例のように、会社で葬儀を執り行うに当たって、仏式で事が進められると言うこともあるかもしれません。その準備に当たって重要な役割を負わされると言うこともあるでしょう。
そこで、N・Yさんが発見したナアマンの記事ですが、このときエリシャがナアマンに言った言葉「安心して行きなさい」の意味の解釈は、N・Yさんが理解した解釈だけが正しいとは限りません。
確かに、ナアマンは自分の国に帰れば、今までどおり主君のもとで、リモンの神殿での儀式に参列せざるを得ない状況が待ち構えています。ですから、ナアマンはその事を見越して、預言者エリシャに対して、自分がリモンの神殿でひれ伏すことを赦して欲しいと願っているわけです。そして、それに対して述べられたエリシャの言葉が「安心して行きなさい」の一言だったわけです。
このエリシャの言葉は確かに一見したところ、ナアマンの願いを肯定的に受け入れているように見えます。少なくとも、ナアマンの願いを頭から否定する言葉ではありません。
しかし、この「安心して行きなさい」と言う言葉、直訳すれば「平和のうちに行きなさい」という言葉は、ある意味では「挨拶」の言葉に過ぎません。例えば、日本語の別れの挨拶に「お気をつけて」というのがありますが、具体的に何に気をつけるのかということに意味があるわけではありません。相手の無事を漠然と願って、送り出す挨拶の言葉です。「平和のうちに行きなさい」と言う言葉も、その内容は漠然とした挨拶の言葉に過ぎないのです。
もしかりに、特別な意味をこめて「平和のうちに行きなさい」と言ったのだとしても、その意味は必ずしも「主君と宗教的に対立しないで、妥協してでも平和な関係を保ちなさい」と言っているわけではありません。エリシャはただ単に「余計な心配はするな」と言っているだけかもしれません。あるいは、「まことの神の与える平和を信じて行きなさい」とエリシャを励ましているのかもしれません。
前後の文脈から、どれがエリシャの意図したことなのかは断定できませんが、わたしとしては、エリシャはナアマンの願いを肯定も否定もせず、すべてを神の平和に委ねて送り出したのだと思っています。エリシャは預言者として何が神のみ心であるかをあえて語ってはいませんが、それはある意味でわかりきったことだからです。
エリシャはナアマンが信仰的に成長することを信じて、平和のうちに彼を送り出したのではないでしょうか。