2005年4月20日(水)「創世記の一章の読み方は?」 ハンドルネーム・ユイさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ユイさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「主の聖名を讃美します。

 BOX190の番組、いつも関心をもって聴かせていただいています。きょうはわたしの長年の疑問を取り上げていただきたいと思い、メールしました。疑問と言うよりは、自分の頭の中を整理する手助けをしていただきたいと言った方がいいいも知れません。

 それは天地創造に関することですが、特に創世記一章に記されている万物の由来についての記事を信仰者としてどう理解したらよいのか、何かすっきりしない思いがあります。

 もちろん、創造者についての神を疑っていると言うわけではありません。わたしは造り主である神を心から信じています。そういう意味では、創世記の一章に記されている事柄を、ほんとうに素朴に信じています。

 しかし、その一方で、科学者が論じている宇宙生成の学説にも少なからぬ関心と興味を持っています。たとえ、そのことが創世記の記事と矛盾しているとしても、それはそれで、あえてどっちが正しいいのかという対決を自分の中でしようとは思いません。

 そういうわたしの信仰は優柔不断で中途半端な信仰なのでしょうか。今さら他のクリスチャン仲間に聞くのも恥ずかしい気がしますし、このことで、あえて誰かと対決しようとも思いません。

 山下先生は創世記の一章をどう受けとめていらっしゃるのでしょうか。すっきりしないわたしの頭の中を整理していただければ幸いです。」

 ユイさん、メールありがとうございました。創世記の一章に関するご質問や、信仰と科学に関するご質問は、以前にもこの番組で何度か取り上げたような気がいたします。それくらい、クリスチャンなら誰もが一度は壁にぶつかる問題なのではないかと思います。

 私自身のことを言えば、自分で聖書を読んでキリスト教を求め始めたのは十代も後半に差し掛かる頃でした。それまで、キリスト教といっさい出会いがなかったのかと言うとそうではありません。天地創造のお話もキリストの降誕の話も、それとなく知っていました。小学校6年生の時だったと思いますが、小学校の前で紙芝居伝道をしていた牧師の話を、くだらない話だと軽蔑したのをはっきりと覚えています。小学校の高学年にもなれば、科学の知識もちょっとはありますし、色々な本から得る知識を身に付け始める頃でもあったので、生意気にもキリスト教の教えを「くだらない」の一言で片付けてしまったのでした。

 それから数年して、自分で聖書を手にするようになって、創世記の記事を読んだとき、くだらないと思うどころか、とても興味を覚えました。少しは科学の知識と比較して、批判的な態度で読むべきだったのかもしれません。しかし、あの時の自分には、聖書は聖書として、書かれているがままに読むことに夢中でした。次元の違うものを持ち込もうという意識もなく、ただ、一体この書物が何を言おうとしているのか興味津々だったのです。

 わたしはこの態度を基本的に今でも変えていないと思います。おそらく、ユイさんも一方では科学的な知識をもっていながら、しかし、聖書を読むときには、聖書が書かれたままに読んでいらっしゃるのではないでしょうか。それは優柔不断な中途半端な信仰でもなければ、妥協的な信仰でもありません。

 そもそも、聖書が書かれた理由がどこにあるのか、ということを考えてみると、それは救いに関わる信仰と人間の生き方を教えるためです。そして、その前提として、宇宙と人間をお造りになった創造者である神が、ご自身を天地の造り主であり支配者であると聖書の中でお語りになっていらっしゃるわけです。このことは、科学的な探求によって間違いないとお墨付きをいただくような問題ではないはずです。聖書が語っていることの権威は、神ご自身の権威に由来するのです。ですから、ほんとうに神が天地の創造者であるのかどうかを、科学と対決して確認する必要もありませんし、科学によってそれを権威付ける必要もないのです。

 それに、創世記の第一章は、科学的な関心を科学的な言葉で書いているとは、どう見ても思えません。聖書が書かれた目的が、そこにはないのですから当然と言えば当然です。創世記の第一章に記されていることは、信仰的な関心から、神の御業を描いたものです。いかに神がこの世界を秩序立てて創造し、恵みと慈しみの中で生き物に命を与えられたのか、そのことを信仰の目をもって読み取らなければ、創世記が書かれた意味がなくなってしまいます。

 要するに一言で言えば、聖書が書かれた目的に添って聖書を読むということ、その一言に尽きるのだと思います。

 では、神が天地万物を創造されたことを信じるクリスチャンは、宇宙の生成を巡る科学的な探求に対して、どのような態度で臨むべきなのでしょうか。その場合、神の創造を信じる信仰を一時的にストップさせて、中立な立場で研究に望むべきなのでしょうか。わたしは、それは良心的なクリスチャンにはできないことだろうと思います。むしろ、神が創造主であることを固く信じながら、科学の前提と方法論で研究に励むべきでしょう。ただ、その研究の成果によって、聖書の正しさを証明しようなどと言う邪道は慎むべきだと思うのです。その動機は一見信仰深いように見えるのですが、結果として聖書の権威を科学のもとにおいてしまうことになるのです。信仰とは科学の権威によって有無を言わさず信じることなのでしょうか。神はそのような方法で人が救いにいたることを望んでいらっしゃるのでしょうか。

 このことは無神論を自分の立場とする科学者にも言えることです。その研究の成果によって、神がいないこと、聖書が間違っていることを証明しようなどと考えることは、科学の本来の目的を見失った邪道な研究に過ぎません。先ずは学問的な前提と方法論に徹して、理論なり学説なりを組み立てるべきなのです。そして、そのようにして出てきた結論が、人間の人生や宗教にとってどんな意義があるのかという問題は、厳密には科学の問題でありません。それは科学的研究をしている科学者の人生観、世界観なのです。それによって振り回される必要もないことでしょう。クリスチャンはクリスチャンとしての人生観世界観でものを考え、無神論者は無神論者の人生観世界観でものを考えるのです。

 ですから、一人の信仰者として、創世記第一章を読むときには、聖書の権威に膝をかがめて、徹底的に神の栄光ある御業をそこに読み取ることが大切なのです。

 また、科学に接する時には、科学の前提と方法論に忠実に従っているか、徹底的に検証することが大切なのです。