2005年4月13日(水)「時が解決しない時は?」 神奈川県 K・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのK・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 山下先生、はじめまして。去年の暮れに放送された「赦し」についての番組で、いろいろと思うことがあってメールいたしました。

 赦せないような問題に直面した時によく友達からも言われることですが、「時間が解決するよ」とか「時が解決するまで待つしかないね」という言葉をよく耳にします。

 確かにそうだなって思うこともありますが、今、自分の中で、時間がたっても解決できそうもない問題があります。

 実は大学での事だったのですが、わたしが所属していた学科はその大学ではあまりメジャーな学科ではなかったので、いつも看板学科の教授や学生から見下されていました。大学を卒業してから何年もたっているのに、未だにそのことを赦せない自分がいます。とても時間が解決しそうにもないです。時間で解決できないならどうすれば解決できるのでしょうか。そもそも、「時間が解決する」っていうのはキリスト教的に考えてどうなのでしょうか。よろしくお願いします。

 K・Yさん、はじめまして。お便りありがとうございました。いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。

 ご質問の中にでてきた「時が解決する」と言う言葉は、色々な場面で出てくると思います。確かに「赦す」ということに関して、使うこともあるかもしれませんが、主にそれは「感情」や「気持ち」という側面について使われているのではないでしょうか。

 例えばあることについてとても大きなショックを受けているとします。愛する人が突然の事故で亡くなってしまったような場合です。さっきまで一緒にいたのですから、何だか本当に亡くなったという実感が沸いてきません。一方では悲しい気持ちがこみ上げてくるのに、他方では本当に亡くなったという現実を受け入れることができないというアンバランスな精神状態になったとします。人間の感情というのはそんなに現実に即してすぐさま気持ちを切り替えることが出来ません。そういう場合、「時間が解決するに任せるよりほかない」と言ったりします。

 「赦し」と言うことに関して言えば、倫理的にも社会正義の面から言っても、絶対に赦されないことは、どんなに時間がたってもやはり赦されないのではないでしょうか。こういう場合には、「時が解決する」とは言わないでしょう。

 しかし、罪を犯した本人が自分の非を認め、十分に謝罪の気持ちを表し、必要な償いも果たした、と言う場合、頭では相手を赦さなければならないことは納得できるでしょう。しかし、やはり気持ちがそれについていかないということは、人間ですから大いにありえることです。そういう場合には、「時間が解決する」ということに期待するよりほかないのかもしれません。

 さて、K・Yさんご自身が抱えていらっしゃる具体的な問題について考えた場合、どうなるのでしょうか。

 まず、K・Yさんご自身は、その問題を「とても時間が解決しそうにもないです」とおっしゃっています。まだ数年しか経っていないのですから、本当にその問題がどっから考えても時間が解決できない問題なのかどうか、断定してしまうことは出来ないでしょう。20年も30年も経った時に、赦せないと思った気持ちすら覚えていなくなるという事だってあるかもしれません。

 それから、直面していた問題そのものが、果たして赦してよい問題なのかどうかということも、もちろんあるかもしれません。「誰かを見下す」というのは、人間の罪深い行動です。それはどうでもいいことだとは、どんなに時間が経ってもいえないでしょう。

 もっとも、本当にその人が見下していたのか、それとも、自分が何かにつけ引け目を感じていて、見下されているように思い違いをしていただけなのか、十分見直してみる必要があるかもしれません。どんなにマイナーな道であっても、それを誇りとしていれば、他人がそれをどう評価しようと、動じることはないでしょう。そう思うことが出来たとすれば、自分を見下す他人の評価に振り回されていた自分が馬鹿らしく感じられることでしょう。

 ところで、「時間が解決する」という考え方はキリスト教の立場から見た場合、どういうことになるのでしょうか。確かに、すべてのことは神の御手のうちにあるのですから、「時間」が何かを解決するのではありません。むしろ神が解決してくださると言う方が、よりキリスト教の信仰に近い表現です。

 また、さしあたり有効な解決策が見当たらないので、とりあえず問題を先送りするために「時間が解決する」といっているのであれば、それはただのごまかしに過ぎません。キリスト教の立場から何かをコメントするまでもないことでしょう。

 しかし、旧約聖書のコヘレトの書(伝道の書)では、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3:1)と言われているのですから、ふさわしい時が来るまで待つという意味で、時が解決することを期待することは信仰にかなったことと言えるでしょう。

 人間と言うのはとかくせっかちな存在です。きょう明日にでも自分の思った通りの結果にならないと、いらいらしたりします。しかし、そう思うときにこそ、時に適った神のすばらしい御業を見失ってしまいがちです。時が経ったときに、神がどんなよい解決の道を備えてくださっているのか、それを期待して歩むことが、キリスト教的な意味での「時間が解決する」ということなのではないかと思います。

 K・Yさんにとって今どうしても赦せないその問題が、将来神によってどのように解決していただけるのか、そのことに心を留めて歩んでいただけたらと思います。