2005年4月6日(水)「わたしは救われているのでしょうか?」 埼玉県 M・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのM・Aさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、はじめまして。メールで失礼させていただきます。
さっそくですが、単刀直入に質問させていただきます。わたしは洗礼を受けてそんなに年数がたっているわけではありません。わたしは本当に救われているのでしょうか。
いきなり変な質問で笑われてしまうかもしれませんが、真面目に悩んでいます。
洗礼を受けようと思った時も、受けたすぐ後も、これで本当に救われると心から思いました。しかし、あの頃の自分と今の自分が本当に変わったのかというと、昔のままの自分がそのままいるような気がします。相変わらず人を傷つけてしまったり、自分中心な生き方をしていたり、これでも、自分は本当に救われたクリスチャンなのだろうかと思ってしまいます。
ほんとうに救われるために何か足りないところがあるのでしょうか。先生、わたしはどうしたら本当に救われるのでしょうか。アドバイス、よろしくお願いします。」
M・Aさん、メールありがとうございました。M・Aさんが洗礼を受けられてから、どれくらいの年月が経つのでしょうか。きっとM・Aさんより信仰生活の長い人であっても、同じような悩みをもっていらっしゃる方もいると思います。あるいは、M・Aさんよりももっと早い時期に、そういう悩みに直面した方もいらっしゃると思います。あるいはまた、これから、そういう悩みにぶつかる人もいるかもしれません。
まずはじめに、わたしも単刀直入に言わせていただきますが、M・Aさんの悩みは、本当に救われているからこそ悩むことができる悩みだということです。
なんだか訳が分からない答えだとお思いにならないで、どうぞ最後までお話を聞いてください。きっと悩んでいる自分を肯定的に受けとめる事ができるようになると思います。
それでは順を追ってお話をしていきたいと思うのですが、M・Aさんが洗礼を受けられたときに、「これで本当に救われる」と心から思ったとおっしゃっていますが、そのとき確信した「救い」というのはどんな「救い」のことだったのでしょうか。もちろん、そのときM・Aさんには特別に問題となっていた悩みがあったのかもしれません。恋の悩み、仕事の上での悩み、悲しい出来事での悩み、いろいろな悩みがあったかもしれません。もちろん、洗礼を受けられたとき、心の整理ができてそういう悩みから解放されたのかもしれません。それも確かに救いには違いありません。しかし、M・Aさんが救われたと確信したのは、もっと大切なことであったと思います。
それは、M・Aさんが神の御前に罪人であるということを認め、その自分をキリストの十字架の贖いのゆえにすべて赦していただいたという事ではなかったかと思います。そのことが「救われた」と思った一番中心の内容ではなかったでしょうか。さらにいえば、その救いというのは、ただ過去に犯した罪からの救いばかりではなく、将来にわたって犯すかもしれないすべての罪をキリストにあって赦していただいているという救いではなかったでしょうか。キリスト教のいう救いのまず一番は、キリストを信じる信仰のゆえに罪の赦しをいつもいただいているというこのことなのです。
ですから、「進歩がないから、変化が見られないから救われていない」なのではなくて、「神は変化も進歩もみられない自分さえ、キリストを信じる信仰のゆえに救ってくださっている」ということなのです。そういう意味で、「わたしは救われているのでしょうか」という質問に対して、わたしはこうお答えします。
「M・Aさんがキリストを自分の罪の救い主と信じつづける限り、あなたは救われています。キリストによる罪の贖いと赦しを大胆に信じつづけてよいのです。」
ヨハネはその手紙の中でこう言っています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1ヨハネ1:9)
それでは、キリスト教の救いとは、罪の赦しをいただくことだけであって、自分自身には何の変化も起らなくてもよいのでしょうか。相変わらず罪の中に埋もれていてよいのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。イエス・キリストは罪の赦しを宣言された後に「これからはもう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)とおっしゃいました。パウロも手紙の中でこう言っています。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」(ローマ6:1-2)
キリスト教の救いと言うのは、罪を赦していただくということですべてが完結しているのではありません。罪の体質を改善していただいて、罪から完全に離れるようになるまで清めていただくことなのです。けれども、罪の赦しは神様の赦しの宣言の一言で、一瞬にして罪赦されますが、罪の体質の改善、キリスト教の用語では「聖化」といいますが、実質的に罪から清めていただき、完全な者とされるには、時間が掛かります。もちろん、神様のことですから、一瞬にして清めることも出来たはずです。しかし、わざわざそうされないで、生涯を通して信仰に生きる中で、だんだんと清められ、完成へと近づくようにされているのです。
ですから、あのパウロでさえフィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(3:12)
さて、M・Aさんは、自分には変化がないとおっしゃっていますが、本当にそうなのでしょうか。日々罪深い自分に気づいているというだけでも、大きな進歩ではないでしょうか。それは救われているからこそ、罪に対して敏感になっている証拠ではないでしょうか。そう気がついた分だけ、聖霊の恵みに謙虚に信頼して成長させていただくことができるのだと思います。