2005年3月16日(水)「何故ペトロは食事の席から退いたのですか」 東京都 S・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのS・Aさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつもホームページを楽しく拝見させていただいています。
さて、前々から疑問に思っていたことなのですが、ガラテヤの信徒への手紙の中に、パウロがペトロの態度に業を煮やして、面と向かってペトロを非難した記事が出てきます。その分部を読んで以来、しっかりとした信仰に立つパウロと、優柔不断なペトロという構図がずっとわたしの頭の中に出来上がってしまいました。
ところが、最近、その個所を読んでいて、ふとペトロの立場に立ってそこを読んだらどうなるのだろう、と思いました。
その直前の個所で、エルサレムの主だった人たち、ヤコブ、ペトロ、ヨハネはパウロやバルナバたちと一致したということが書かれています。もしそれが本当だとすれば、どうして再び教会が分裂するようなことをペトロがしてしまったのでしょうか。何かよほどのことがあるのでなければ、「一致の手を差し伸べた」という直前の記事と、ペトロの態度とはどうしても調和しがたいと思うのです。いったいペトロに何が起ったのでしょうか。
よろしくお願いします。」
S・Aさん、お便りありがとうございました。S・Aさんは相当深く聖書を読んでいらっしゃる方とお見受けしました。クリスチャンにとって聖書はもちろん信仰の書なのですが、それは聖書が書かれた歴史的な背景と無関係なものなのではありません。特にパウロの書簡は、その書かれた歴史的な背景を踏まえながら読むときに、いっそう書かれていることの重要性を味わうことができるものです。そういう意味で聖書学者たちが歴史的に聖書を研究している恩恵と言うのは図り知ることが出来ません。
さて、S・Aさんが今回疑問に思われた個所は、ガラテヤの信徒への手紙の2章11節から14節までのところです。
まずこの事件が起ったのはアンティオキアという場所でした。アンティオキアの教会というのは、異邦人伝道の拠点ともなった場所でした。そこにはギリシャ人のクリスチャンが大勢いました。ちなみにキリストを信じる人々に「クリスチャン」という呼び名がついたのも、このアンティオキアでのことでした。
どのような事件がどういう背景のもとで起ったのかというと、残念ながら、使徒言行録には事件の記録がありませんので、このガラテヤの信徒への手紙を手がかりとするほかはありません。
事件の表面的な筋書きはそう難しいものではありません。ペトロはこの教会を訪ねたとき、異邦人クリスチャンたちと普通に食事の交わりをしていました。ところがエルサレム教会の中心人物であったヤコブのもとからある人々が来ると、ペトロは急に態度を変えて、異邦人との会食から身をひき始めたというのです。それはペトロひとりではなく、やがてはこのアンティオキアの教会では中心的な人物の一人であったバルナバをも巻き込んでしまったというのです。それで、そのような態度に怒りを覚えたパウロが面と向かってペトロを非難したというのが事件の粗筋です。
ところが、この事件にはいくつかの腑に落ちない点があります。まずはS・Aさんがご指摘くださったように、この事件について語る直前の個所で、パウロはエルサレムの教会とパウロとの間に一致が確立していたことを述べています。つまり、ユダヤ人伝道と異邦人伝道は伝道の対象は異なっているのですが、どちらも神の国の福音の宣教と言う点では、同じ神から与えられた務めであるという一致した認識があったのです。しかも、そのとき、エルサレムの教会の主だった人たちから、割礼を強要されると言うこともなかったのです。
そうであるとすれば、ヤコブのもとからきた人々が異邦人伝道を否定するような行動に出るようなきっかけをペトロに与えたとは考えにくいものがあります。
確かに、福音書に描かれたペトロの姿は、言葉と行動とがちぐはぐなことことがありました。「たとえ他の弟子たちがイエスを見捨てようとも、自分は最後までイエスの後に従う」と言いつつも、そのすぐ後でイエスを三度否認してしまうということがありました。そういうペトロの性格を考えると、ペトロの態度が急変したとしてもおかしくはないかもしれません。
しかし、すでにパウロやバルナバと一致を見たエルサレムの教会の主だった人々までも、一致を乱すような行動をペトロに勧めたとは考えにくい面があります。おまけに、異邦人伝道に力を注いできたバルナバをも巻き込んでのことですから、事件の背景は思ったより単純ではないのかもしれません。そういう意味では、S・Aさんが疑問に感じた事柄は、とても鋭い指摘だと思います。
もしこれが、パウロとエルサレム教会との間に一致が見られていないというのであれば、事件は理解しやすいかもしれません。異邦人伝道を目指すアンティオキアの教会に同調していたペトロが、ユダヤ主義に傾くエルサレム教会の圧力に屈して、優柔不断な行動に出てしまったという単純な事件です。
しかし、パウロが書いていることは、あくまでも、エルサレム教会とパウロたちとの間で一致した信仰に立っていたということが前提なのです。
そこで、もう一度注意深くパウロが書いていることを読み返してみると、ペトロが恐れていたのは「割礼を受けている者たち」です。うっかりすると、このペトロが恐れた「割礼を受けている者たち」というのは、「ヤコブのもとからきた人々」と同一人物だと考えてしまいがちです。現に、多くの人たちはそう考えています。
しかし、そうだとすると、せっかく一致をみたエルサレムの教会が態度を変えて、ペトロを説得したということでしか事件を説明することが出来なくなってしまいます。
しかし、もし、ペトロが恐れた「割礼を受けている者たち」と「ヤコブのもとから来た人たち」が違う人を指しているとすれば、事件の見方も変わってきます。そこで、ある学者たちは事件をこう見ています。
つまり、異邦人伝道と言う点で一致していたエルサレムの教会に対して、熱狂的なユダヤ人からの嫌がらせが強まってきたと考えるのです。そのことをヤコブのもとからきた人々がペトロに報告をすると、ペトロはエルサレムの兄弟たちの身の上を気遣って、これ以上ユダヤ人とエルサレム教会との間に摩擦が生じないように、ユダヤ人を刺激する行動から身をひいていったと考えるわけです。
確かにこう考えるならば、ペトロは信仰的な一致から態度を翻したのではないといえるのではないでしょうか。
S・Aさん、いかがでしたでしょうか。聖書の背後にある歴史をみるということは本当に興味深いものがあると思います。ペトロの行動を神学的にとらえれば、パウロがペトロを非難したのは当然かもしれません。しかし、ペトロの行動を牧会的な配慮と取れば、また別の評価もできるのではないでしょうか。