2005年3月2日(水)「バチが当たった方が分かりやすい?」 ハンドルネーム・イブさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・イブさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組をネットで楽しく読んだり聴いたりしています。
わたしには特に今信じている宗教と言うものはありません。ただ、小さい頃から、『バチが当たる』という言葉が心に引っかかり、それがわたしにとっての宗教のようになっています。悪いことをすれば必ずその報いが返ってくるというのは、恐ろしいことのようにも感じられますが、しかし、単純明快で分かりやすい気がします。
そこで質問なのですが、キリスト教では『バチ』という考えはないのでしょうか。よろしくお願いします。」
イブさん、メールありがとうございました。イブさんは、おいくつぐらいの方か分かりませんが、「バチが当たる」と言う言葉をどこで誰から耳にしながら育ってこられたのでしょうか。私自身はもうすっかりキリスト教の環境の中で生活をしていますので、その言葉を久しく耳にしたことがありません。わたしの子供たちも、その言葉を知らないかもしれません。けれども、わたしが子供の頃、わたしはキリスト教の家庭で育ったわけではありませんから、しょっちゅう「バチが当たる」という言葉を耳にしながら育ってきたように思います。友達同士でも、「バチが当たる」という言葉を使っていたような気がします。
そこで、あらためて「バチ」と言う言葉を辞書で引いてみましたが、漢字で書くと「罪と罰」の「罰」と言う字を書きます。意味は「@神仏が、人の悪行を罪して、こらすこと。A悪事のむくい。たたり」(広辞苑)ということです。「バチが当たる」と言う場合は、主に@の意味、つまり、「神仏が、人の悪行を罪して、こらすこと」という意味だと思います。これはある意味、宗教的な素朴な考え方だということができると思います。
「悪いことをすれば、必ずその報いが神から与えられる」「神は悪いことを見過ごして置かれるはずはない」…こうしたものの考え方は、人間の心に深く刻み込まれた宗教心であると思います。キリスト教的にあえて説明しようとすれば、それは聖書の神が人間に与えた感覚であると言ってもよいと思います。そういう感覚があるからこそ、キリスト教を信じていなくても、誰もが自然と悪を避ける傾向をもっているのです。
けれども、一般的に使われる「バチが当たる」と言う表現は、ただ単に「神が悪に報いを与え、こらしめる」という範囲を超えて使われる場合もあります。そこが人間の罪深いゆえんでもあるのですが、人は言葉の持つ意味をしばしば自分に都合のいいものに変えたり、本来の意味を超えたものに自分から縛られて恐怖感さえ抱く愚かな者なのです。
たとえば、「バチがあたる」というのは、しばしば「たたりがある」というのとほとんど同じ意味で使われることもあります。タブーに触れられたくない時、「バチが当たるぞ」と脅かせば、大抵の人は怯んでしまうものです。善悪とは関係のないものにまで使われるようになってくると、もはや、脅かしの言葉でしかなくなってしまいます。
あるいは、結果から原因を想像して、「このような結果になったのは何かのバチに違いない」という愚かしい適用の仕方もあります。自戒の念や反省の気持ちを込めて、「何かのバチかもしれない」と考えるならまだしも、おせっかいにも、他人の不幸の原因を何かのバチと決め付けることさえ人間はしてしまいます。
では、キリスト教には「バチ」に相当するような考え方はないのか、というと、全くないというわけではありません。はじめにも挙げましたが、「神は悪に必ず報いる」という考え方は聖書そのものの考えの基本です。たとえばローマの信徒への手紙の中で「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」(2:6)と言われています。究極的には最後の審判の時が報いの時なのですが、時々、悪を懲らしめる目的で、神がただちに罰を下すという場面が聖書には出てきます。そのような場面は特に旧約聖書の中にしばしば見られます。たとえば、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は、荒野での旅に耐えかねて不平を言い始めます。その不平の罪に対して、神は炎の蛇を送ったと記されています(民数記21:4-6)。あるいは、ヨシュア記の中にアカンと言う人物が出てきますが、彼は滅ぼし尽くして献げるべきことに関して、神の命令に背きました。そのことが原因で神は激しく憤り、イスラエルが戦いに負けてしまうという事件がありました(ヨシュア記7章)。
こういう出来事を読むときに、聖書にも正に「バチがあたる」という考えがあるのだと思いたくなってしまうかもしれません。確かに、犯された罪を神は決して見過ごされないという考えは、聖書に一貫して流れています。
しかし、聖書は必ずしも悪が直ちに神によって罰せられるということを言っているわけではありません。時として、忍耐深く人間が罪を悔い改めることを待っておられるお方として聖書には神が描かれることもあります(詩編103:8-10、ローマ2:4)。また、悪人の悪が放置され、裁きが直ちに実行されない現実があることも聖書は描いています(詩編73編、ハバクク書1:1-4)。しかし、それでも、聖書の中には神の正義を信じる信仰が一貫して流れています。
それからもう一つ重要なことは、悪が罰の報いを受けるという教えがあっても、その逆が必ずしも正しいとはいえないという教えも聖書にはあります。たとえば、病気や貧困は悪に対する報いとしてしばしば聖書の中にも登場しますが、しかし、個人が抱えているすべての病気や貧困が、その個人の特定の罪の報いであるという考えが正しいとは教えていないのです。
そのもっとも大きな具体例は、旧約聖書のヨブ記がそうです。ヨブに襲い掛かる数々の不幸は決してヨブの罪と直結していたわけではありません。ヨブの不幸が罪と直結していると考えようとしたヨブの友人が逆に神から叱責されます。
もう一つの具体例はヨハネ福音書の9章です。そこには生まれつき目の見えない人が登場しますが、イエスはこの人が目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいました。
以上のことから考えてみると、この世で普通に使われる「バチが当たる」と言う言葉は、一見聖書にも見られる考え方のようですが、しかし、やはり聖書そのものの考え方とは違うものであるということができると思います。ただ、素朴な気持ちとして「悪には必ず報いがある」という恐れの気持ちは、大いに大切にされるべきことは言うまでもありません。