2005年2月16日(水)「クリスチャンになるとどう変わるのか」 宮城県 K・Tさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は宮城県にお住まいのK・Tさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「しばらく前に、貴重なテープと書き物を送ってくださいまして、本当にありがとうございました。

 さて、質問があるのですが、果たして、クリスチャンとそうでない者とは、小さな差なのでしょうか、それとも大きく違うのでしょうか。クリスチャンになるとどう変わるのでしょうか。わたしは神様はもちろんいらっしゃると思います。

 どうぞそのあたりのことを教えてください」

 K・Tさん、お便りありがとうございました。長いお手紙の一部分だけしかご紹介できませんでしたが、K・Tさんがとても熱心なクリスチャンであることはお便りの中から十分に読み取ることが出来ました。そして、この質問が決して懐疑的な気持ちから出てきているのでもないことも十分に理解できました。

 ただ、一人のクリスチャンとして、日々の信仰生活の中でそんな疑問にぶつかることはよくあることだと思います。クリスチャンである自分とクリスチャンでない人たちの違いは一体何なのだろう…そう思うことは誰にでも少なからずあるのではないでしょうか。

 世の中を見回せば、クリスチャン以上に立派な人はいくらでもいます。誠実で良心的で、親切な人。与えられた才能をフル活用して他の人に仕えている人…こういう人はクリスチャンでない人の中にも大勢います。

 逆にクリスチャンの世界を見渡した時に、この世の人と大した違いも感じられない人もいます。必要以上に争いごとを好んだりする人、噂話に花を咲かせる人、自分のことにしか関心のない人…こういう人がクリスチャンの世界に全然いないのかというと決してそうではありません。

 そういう現実を前に、果たしてクリスチャンとそうでない人の違いは何だろうと、誰もが疑問を持ちたくなってしまうかもしれません。あるいは、クリスチャンになるとどう変わるのだろう、と素朴な疑問を抱きたくなるのも無理はありません。

 さて、こうした疑問に答えるには、いくつかの前提となる事柄について知っておく必要があると思います。まず、その一つは、人をお造りになった神は、クリスチャンであれ、そうでない人であれ、恵みを豊かに注いでくださっているという事実です。イエス様もルカ福音書の中でこうおっしゃっています。

 「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカ6:35)

 その同じ神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です(マタイ5:45)。

 つまり、一般的に与えられる恵みに関していえば、クリスチャンとそうでない人を、与えられる恵みによって見分けたり区別したりすることは、ほとんど不可能と言ってもよいかもしれません。そしてまた、そのように神様が信じる者にも信じない者にも恵みを注いで下さっているからこそ、この社会が最悪なものになってしまわないで保たれているのです。ですから、クリスチャンでない人の中にも正義感の強い人がいたり、思いやりのある人がいたり、才能豊かな人がいたりするのは、神のこのような恵みのお陰なのですから当然のことなのです。

 それに対して、クリスチャンが特別にいただいている恵みに関していえば、クリスチャンとそうでない人との違いは大きなものがあります。

 例えば、ローマの信徒への手紙の8章で、パウロはこの特別な恵みをいただいたクリスチャンのことをこう描いています。

 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:30)

 神との関係で言えば、救いの特別な恵みによって、神の前に義とされています。この場合、「義とされる」と言うのは法的な考えですから、それがすぐに違いとなって外見に表れるというものではありません。しかし、神の前に義とされているかそうでないかは、重大な違いです。

 あるいは、聖書のほかの個所では、イエス・キリストを信じる者は神の子とされた者であるといわれています。神の子として養子に迎え入れられることは、身分の変化をもたらすものです。これも、外見上すぐさま何かが変わるというものではありませんが、神の子である身分をいただいているのと、そうでないのとでは全然違います。

 あるいはまた、ガラテヤの信徒への手紙5章によれば、クリスチャンは霊の導きに従って生きる者であるといわれます。神の霊を内にいただくということは、クリスチャンの特権です。これも、クリスチャンとそうでないものとを区別する大きな違いです。

 さらに、同じガラテヤの信徒への手紙には、そのように神の霊に導かれる者が結ぶ実について記されています。

 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」…これらは神の霊が結ぶ実であるといわれています。

 もちろん、桃栗三年、柿八年といわれるように、果実でさえ実を結ぶのには年数がかかるのですから、クリスチャンが実を結ぶのにもそれなりの年数がかかったとしても不思議ではありません。いずれにしても、クリスチャンの内面には神の霊によって重大な変化がもたらされていることは間違いありません。

 そのような変化について、パウロは第二コリントの5章17節でこう言っています。

 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 まさに、クリスチャンの内面には新しい創造の業が始まっているのです。やがてそれは完成の時を迎え、栄光のからだへと完全に変えられるです。そして、そのことを信じ、期待することがキリスト教の信仰であり、希望なのではないでしょうか。