2005年1月19日(水)「自殺を止められなかった自分と友人の死」 奈良県 N・Fさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は奈良県にお住まいのN・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつもよい番組をありがとうございます。
実は唯一の親友が自殺しました。わたしと同じ統合失調症とうつです。いつもメールや電話で励ましあい、実際に会ったこともあります。亡くなる直前に電話があり、『死ね』という幻聴に従ってしまうかも知れないと言っていました。わたしは自殺をしてもこの世をさまようと言っていたのですが、帰らぬ人となってしまいました。
わたしは親友の自殺を止めきれなかったことに罪を感じています。親友の自殺をどう受け止めればよいのでしょうか。アドバイスお願いします。」
ということなんですが、N・Fさん、番組をいつも聴いてくださってありがとうございます。無二のお友達を自殺で亡くされたと言うこと、ほんとうに辛い経験でしたね。特に亡くなる直前に、その友人の方から電話をいただいているだけに、悔やまれるお気持ちもいっそう大きいことかと想像いたします。N・Fさんからのお便りを読みながら、自分自身の経験と重ね合わせていろいろなことを考え、思わされました。
お手紙を読んで先ず思ったことは、N・Fさんもその亡くなられたお友達の方も同じ病気を背負っていらっしゃったと言うことです。どんな病気でもそうですが、楽しい病気と言うのはありません。病気であると言うその事実だけでも気持ちが滅入るものです。その上に病気が理解されないという辛さもあると思います。特に心の病の場合、病気のことを理解してもらえない、病気である自分を受け入れてもらえないという辛さ、寂しさが大きいのではないかと思います。
そんな中にあって、お二人がメールや電話で繋がっていたこと、お互いに気持ちを理解しあっていたこと、そのことはとても大切なことだったのではないかと思います。
最後にそのお友達が電話をしてきた先が、N・Fさんであったということは、そのお友達が、どれほどN・Fさんのことを頼りにしていたかと言うことのあかしではないでしょうか。確かに、それだけに親友の自殺を止められなかったという悔しい思いが、N・Fさんにはいっそう強いのかもしれませんね。
N・Fさんは「親友の自殺を止めきれなかったことに罪を感じています」とおっしゃいました。その気持ちは痛いほどよくわかります。私自身もこういう仕事をしていますから、自殺を予告する電話やFAX,メールをいただくことがあります。すぐに飛んで行って力ずくにでも思いとどまらせたいと思うこともあります。しかし、場所も顔も知らない相手なので、どうすることもできないこともあります。今まで、それで実際に自殺した人はいなかったのでよかったのですが、もし、本当に亡くなってしまったとすれば、何もできなかった自分に対してN・Fさんと同じように罪責感を感じるかもしれません。
しかし、何かが出来なかったということ、何かが足りなかったと考えてご自分を責めるるのではなくて、友達のために出来たこともちゃんと数え上げることも大切だと思います。
少なくとも、N・Fさんは最後までそのお友達の頼れるべき存在であったこと、そして最後の訴えを聞いてあげたこと、その二つだけでも、他の人には誰も出来なかったのですから、自分を必要以上に責めてしまうのはどうかと思います。
ところで、N・Fさんは「親友の自殺をどう受け止めればよいのでしょうか」と書いてくださいました。
まず、「自殺」というものが一般的に決してよいイメージをもたれていないと言う事実があります。人によっては、自殺も他殺も、殺す対象が違うだけで、どちらも殺人の罪だと考える人もいるほどです。それほどまでに「自殺」と言うことにはネガティブな反応があります。
その一方で、心の病の結果、衝動的に自殺に走ってしまうのは、本人に何の責任もあるわけではないという見方もあります。確かにそれも一理あるかもしれません。わたしは精神科医ではありませんから、心の病気と自殺とがどういう関係にあるのか、安易にものを言うことは出来ません。また、法律家でもありませんので、責任論という問題に踏み込んで何かを言うつもりもありません。
ただ、一人のクリスチャンとして思うことは、N・Fさんのお友達は、少なくとも自殺を図る直前まで精一杯生きようとされていたということです。そうでなければ、「幻聴に従って自殺してしまううかも知れない」などという訴えをされなかったと思います。その部分でそのお友達のことを見るならば、わたしたちと同じように生きることを願う一人の人にほかなりません。そうであればこそ、一人の友を失ったことは、とても悲しいことです。
どんな人の死であっても、それが自殺であれ、老衰であれ、事故であれ、あるいは病気であれ、人間がすべてをコントロールできないと言うのも事実です。ああすればよかったと後悔することはできますが、実際、過去にさかのぼって何かをやり直すことは出来ません。とても悲しいことですが、人間にできるのはその死を事実として厳粛に受け入れ、自分の心を整理することだけです。
N・Fさんやそのお友達に対して、この世の人がどういう評価や判断をするか、それにあまり心をかき乱されない方がよいでしょう。また、自分自身で心をかき乱すのもよくないでしょう。一人の親友がいて、その人が死を迎えたのです。その事実を厳粛に受け止めると同時に、しかし、その友人が亡くなったという事実が、今までお二人が無二の親友であったと言う事実を覆すものではないことも確信してください。
最後になりましたが、主イエス・キリストがN・Fさんのこの悲しみに目を留めてくださり、共に涙を流し、慰めてくださいますように、心からお祈りします。