2005年1月5日(水)「十戒について」 広島県 S・Iさん

 新しい年を迎え、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。今年もどうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は広島県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちわ。きょうはわたしの疑問に答えていただきたいと思い、メールしました。

 その疑問と言うのは、十戒についてです。特に後半部分にはこの世の法律や倫理道徳から言ってもそうだと思える戒めが記されています。殺すな、盗むななどです。

 文字通りに殺したり、盗んだりすれば犯罪になります。そういうことを実際にしてしまう人は、いくら治安が悪くなった日本とはいえ、そう大勢ではないと思います。しかし、誰かのことを疎ましく思ったり、人のものを欲しがったりすることなら誰にでもあることだと思いますす。そして、そういう心の奥底に潜む殺人や盗みの根についても、十戒が禁じていると言うのも理解できます。

 けれども、この十戒が求めていることが、ただ消極的に何かをしないということだけではなくて、積極的に何かをすることだ、といわれると、果たして、誰がこの戒めのとおりに生きることができるのだろうかと思ってしまいます。たとえば、『殺すな』という戒めは誰かのことを疎ましく思わないという消極的な姿勢ばかりではなく、誰かの命を積極的に守る姿勢が求められているのだとすれば、わたしは毎日『殺すなかれ』という戒めをやぶっていることになると思います。なぜなら、この地球上に飢餓で苦しんでいる人がいても、その人たちの命のために何もしていない自分がいるからです。

 そう考えると、十戒など誰も守れる人などいないのではないかと思えてきます。いったい、十戒はどのように受け取り、実践していくべきなのでしょうか。

 よろしくお願いします。」

 S・Iさん、メールありがとうございました。新しい年の最初の番組で、こういう真剣な問題を取り上げることができるのは、本当に嬉しいことだと思います。S・Iさんが真剣に十戒のことを考え、それを実践しようとしている姿勢に心が洗われる思いがしました。

 十戒を前にして、人はしばしば二つの方向に流れやすいものだと思います。その一つは、表面的に文字通りの意味で実践すればこと足りると言う考えです。S・Iさんの挙げた例で言えば、実際に殺したり、盗んだりしなければそれで十分ではないかということです。たしかに、それさえ守れない人間がいることを思えば、表面的にでもそれが実践できれば、世の中が今よりずっと良くなることは間違いありません。

 それから、もう一つの方向というのは、十戒を表面的にではなく、それが求めている精神も含めて実践することは、所詮人間には無理なことだとして、最初から諦めてしまう生き方です。たしかに、十戒をその精神まで含めて実践しようとすれば、罪深い人間にはとうてい手が届きません。

 確かにそのどっちの方向にもそれなりの正しさがありますが、しかし、どっちの方向に進むにしても、それで十分ではありません。

 主イエス・キリストはもっとも大切な戒めについて、尋ねられた時、神への愛と人への愛という二つの戒めにそれを要約されました。S・Iさんもよくご存知だと思いますが、十戒のうち最初の四つの戒めは神への愛を規定したものです。そして、後半の六つは人への愛を規定したものです。十戒はわたしたち一人一人に神を愛し、人を愛することを求めているのです。そういう意味で、何かをしないと言うことだけで十戒が十分に守られているとはいえません。愛から出る何かをしてこそ、ほんとうに十戒を守ったことになるのです。

 しかし、S・Iさんが指摘したとおり、もし、そういう積極的な守り方をしないのであれば、十戒を守ったことにはならないとすれば、この世のだれも十戒の求めに応えることのできる人はいないでしょう。

 もちろん、神の御心・神の求めに積極的に応じることができない自分、神の前には罪深い自分であることに気がつくだけでも、これはたいしたことだと思います。それがなければ、キリストの救いなどだれも必要と思わないからです。そういう意味では、十戒はわたしたちをキリストのもとへと駆り立てる役割を持っているということができると思います。十戒を守ろうとして、自分の罪の深さ、自分の力のなさを思い知っただけでも、ある意味では十戒を十分に受け取ったと言うことができるかもしれません。

 しかし、それでもはやり、十戒が与えられたのはただ単に自分の罪を自覚するためばかりではないはずです。十戒を守ろうとして、自分が罪人だとわかっただけでもう十分だとするわけには行きません。神が我々に十戒をお与えになったのは、そこに記された事柄が、神の御心を表しているからです。そして、そこに現れた神のご意志に人間が従うことを神は望んでいらっしゃるのです。

 では、完全に守れないものをなおも持ちつづけることに、どんな意味があるのでしょうか。どうすれば、わたしたちは十戒を重んじた生き方をしていることになるのでしょうか。

 まず、ここで注意をしなければならないことは、神様がわたしたち人間を愛するようにわたしたちは人を愛せないと言う限界を知るべきです。神が人を愛するように人を愛せなかったとしても、それは罪とは言えないでしょう。例えば、S・Iさんはこの世界に飢餓に苦しむ人たちがいるのを知りながら何もしない自分は「殺すなかれ」という十戒を破っていることになると言いました。確かに何もしないのであれば、愛の掟に反することになります。けれども、イエス様のように五千人もの人々に食べ物を分け与えられないからと言って、それは人を愛さなかったことにはなりません。

 よきサマリア人の譬えに出てくる、サマリア人がしたことは、自分のできる範囲でなした愛でした。強盗に襲われた人を介抱して、あとはお金を託して宿屋にその人あずけたとしても、それは愛が足りないと非難されることではありません。最後まで責任をもって面倒を見るべきだとはいえないでしょう。

 けれども、イエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」おっしゃいました。たとえ神であるイエス・キリストのように愛することができないとしても、はやり、愛の模範はキリストのうちにあるのです。このキリストの模範に倣って愛に生きようとする姿勢をもちつづけること、それこそが、わたしたちに十戒が与えられている意味ではないでしょうか。

 結局のところ、十戒を通してイエス・キリストの愛を思い、イエス・キリストに従おうという思いをますます豊かに与えられるのではないでしょうか。