2024年10月24日(木)喜びの時、新しい時代の始まり(マタイ9:14-17)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 変化する時代にどう向き合うか。これは今を生きる私たちには無視できない問題です。例えば、スマートフォンが登場したことで、私たちの生活やコミュニケーションの形が大きく変わりました。それまで慣れ親しんでいた固定電話や手紙が、今ではほとんど使われなくなってしまった一方で、古いものに懐かしさや安心感を覚える人もいます。しかし、新しい技術に順応しなければ社会に取り残されてしまうのも現実です。  この「古いもの」と「新しいもの」の葛藤は、私たちの日常だけではなく、信仰生活にも通じるものがあります。

 イエス・キリストが登場されたとき、その教えや御業に触れた人々は「権威ある新しい教えだ」と驚嘆し論じあったとあります(マルコ1:27)。論じ合ったのですから、その新しさが、手放しで受け入れられたのではない様子が伺われます。

 特に信仰の問題では、古くから続いているということ自体が、誰もが受け入れてきた不変の真理であることを裏付けていると考える傾向があります。そして、それはある意味で正しい判断であるかもしれません。

 けれども、イエス・キリストの登場には、それを覆すような時代の変革に対する新しい意識がありました。

 今日取り上げる箇所には、「古いもの」と「新しいもの」が対比される場面が登場します。ことの発端は断食を巡る問いでしたが、そこで語られるイエス・キリストの三つの譬えには、今の時代をどう捉えるのか、独自の視点が語られています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 9章14節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 きょうの話は、ヨハネの弟子たちがイエス・キリストに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と質問するところから始まります。

 旧約聖書では、特に「贖罪の日」に全イスラエルの民が断食するよう命じられていました(レビ記16:29-31)。しかし、それ以外にも多くの人々が自発的に断食を習慣にしていました。特にファリサイ派の人々は、週に二度の断食を熱心に守っていました(ルカ18:12)。同じように、洗礼者ヨハネの弟子たちも断食を実践していたようです。

 そのために、イエス・キリストの弟子たちが断食をしていないことが、洗礼者ヨハネの弟子たちには理解できなかったのです。習慣的に断食を行う人々にとって、イエス・キリストの自由な行動は奇妙に映ったのかもしれません。

 けれでも、ここで大切なのは、イエス・キリストが断食そのものを否定していたわけではないという点です。実際、イエス・キリストは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野での試練で四十日間の断食を行われました(マタイ4:2)。

 また、「山上の説教」でも、断食する際の心の姿勢について教えています(マタイ6:16-18)。これらのことからも分かる通り、イエス・キリストは断食の意義を軽視していたわけではありません。

 では、なぜイエスは弟子たちに定期的な断食を求めなかったのでしょうか。その理由は、「時」についての理解に関わっています。

 イエス・キリストは、ヨハネの弟子たちの問いに対して三つの譬えを用いて答えました。それらの譬えには共通して、「今」という時代をどう理解するかが重要なテーマとして示されています。

 最初にお語りになるのは婚礼の譬えです。

 「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とキリストは問いかけています(マタイ9:15)。婚礼の宴は、旧約聖書でも「救いの象徴」としてたびたび使われます(イザヤ62:5)。ここでイエス・キリストは、ご自身が「花婿」であり、弟子たちは今まさにその祝宴の喜びの中にいることを示しています。花婿と共にいる間は喜ぶべきであり、断食のような悲しみの表現は不適切です。

 この譬えが示しているのは、「今は救いの時」であるということです。神の恵みが目の前にある時、古い悲しみや律法の束縛に縛られる必要はありません。

 二番目の譬えは新しい布と古い服の譬えです。

 イエス・キリストは「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりはしない」とおっしって「新しい布を古い服に継ぎ当てること」の愚かさを語ります(マタイ9:16)。

 これは、新しい時代にふさわしい生き方が求められることを示しています。古い時代の枠組みに新しい恵みを押し込めようとすると、どちらも台無しになってしまうからです。これは、古い律法主義と新しい救いの恵みの調和が不可能であることを象徴しています。

 三つ目の譬えは、新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えです。

 イエス・キリストは「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる」と語ります(マタイ9:17)。新しい皮袋だけが新しいぶどう酒の発酵に耐えられるのです。

 ここでも、新しい時代にふさわしい容れ物が必要であることが強調されています。イエス・キリストがもたらす救いは、古い時代の器にはそぐわない、新しい霊的な現実なのです。

 この箇所のメッセージは、キリストとの出会いが新しい時代の始まりであることを私たちに告げています。パウロもまた、キリストとの結びつきをこう表現しました。

 「だから、キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。

また、パウロはこうも述べています。

 「今や、恵みの時。今こそ、救いの日」(2コリント6:2)。

 イエス・キリストに従う私たちには、古い価値観や習慣に縛られず、新しい命を生きることが求められています。キリストのもとにある時代は、救いと解放の時です。私たちもまた、その新しい時代にふさわしい生き方を選び取り、喜びの中に生かされたいと願います。

 私たちの信仰生活の中でも、古いものと新しいものとの間で葛藤することがあります。しかし、重要なのは、キリストにある新しい時に何がふさわしいかを見極め、神の導きに従うことです。キリストがもたらした新しい恵みに生きることこそ、信仰者にとっての最大の喜びなのです。


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