2024年7月18日(木)求め、探し、たたき続ける(マタイ7:7-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「諦めが肝心」という言葉があります。物事に執着するあまり、物事が前に進む見通しが立たないときに、その物事への執着を一旦やめることを勧めるときに使う言葉です。

 もっとも「諦めが肝心」といっても、最初から分かりきったような顔をしてなんでも諦めてしまう人はいないでしょう。問題なのは、どの時点でわたしたちは諦めたらよいのか、その見極めが大切です。

 「あきらめる」という言葉を辞書で引くと、もともとは「明らかに見極める」「事情などをはっきりさせる」という意味の「明らむ」という言葉から、諦めるという言葉が生まれたそうです。ただ簡単に諦めてしまうのではなく、明らかに見極めることの大切さを思います。

 きょう取り上げようとしているイエス・キリストの言葉には「諦める」こととは真逆のことが勧められているように感じられます。しかし、ここにも明らかに見極めることの大切さが教えられているように思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 7章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 ここには「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という三つの命令が記されています。ギリシア語文法の初級クラスでは、ギリシア語の命令形には二種類の形があって、「今すぐにしなさい」というのと「継続してしなさい」というのでは、形を取ることを教えられます。

 ここで使われているのは、「今すぐ求めなさい」という形ではなく、「求め続けなさい」という形です。もっともイエス・キリストご自身が話されていたアラム語には、命令形にギリシア語のような区別はありませんが、文脈から考えて、ここは一回限りの行動を促しているというよりは、継続した行動の反復を求めているのは明らかです。したがってここでは「求め続けること」「探し続けること」「門をたたき続けること」の大切さが教えられています。

 さきほど冒頭でもお話ししましたが、「諦めが肝心」という言葉があるくらいに、人間はむしろ放っておいても求め続けるほうが得意なようにも思えます。いったいイエス・キリストがどんな文脈の中でこの言葉をおっしゃったのか、その社会的な文脈を考えてみる必要があるように思います。

 当時のユダヤ人の社会は、ローマ帝国の支配下にありました。「ローマの平和」という言葉があるように、ローマの市民にとっては平和な世界であったかもしれません。しかし、力によって自分たちの国を奪われた人たちにとっては、毎日が必ずしも心穏やかではありませんでした。

 心穏やかでいることができない理由の一つには、ローマ帝国に対して高い税金を収めなければならないことと、その税金が必ずしも支配される側の者たちの益とはむすびつかなかったからでした。ユダヤの人たちはそういう苦しみの中にありました。

 問題はそれだけではありませんでした。こうした支配構造の中で、支配される者たちの中にも、支配者側とうまく結びついて既得権を手に入れていた者たちがいたことです。

 そのような暮らしの中で、庶民の心の中には、だんだんとあきらめムードが広まっていったとしても不思議ではありません。

 しかし、他方では熱心党のような過激な思想を持つ者たちがいたことも事実です。彼らはこのような支配に屈して諦めるどころか、暴力に訴えてでも自分たちの国と信仰を回復しようと思う人たちでした。

 こうした時代背景の中で、イエス・キリストの言葉に耳を傾ける必要があります。もちろん、イエス・キリストが「求め続け」、「探し続け」、「たたき続ける」ことを求めていらっしゃるのは、熱心党のような歪んだ信仰を鼓舞するためではありません。むしろ、自分の力ではどうすることもできない苦しみの中にあって、神への信頼さえ揺らいでいる人々を励ますためです。

 求め続けること、探し続けること、そして門をたたき続けることでもたらされる結果を、イエス・キリストは約束しています。それは、「与えられること」「見つかること」「門が開かれること」です。しかし、それを言うだけなら、誰でも言えることです。大切なのは、どんな根拠で、イエス・キリストはその結果を約束しているかということです。

 イエス・キリストは人間の父親と天の父である神とを比べながら話を進めています。しかも、その人間の父親は必ずしも正しい人ばかりとは限りません。いえ、神の目から見れば、皆、罪人です。しかし、そんな罪深い父親であったとしても、魚を欲しがる子どもに蛇を与えたり、パンを欲しがる子どもに石を与えたりはしません。

 もちろん世の中には例外的な人間もいるかもしれません。しかし、この話はそこがポイントではありません。神は人間以上に正しいお方であり、人間に必要な良いものをご存じであるお方であるということです。

 このことは、祈りについて教えられたイエス・キリストの言葉の中にも表れています。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)

 そして、知っているというばかりではなく、それを与える力をも持っていらっしゃるということです。

 ただし、この例えの中では、与えられるのは、求めたものそのものではなく、「良い物」と置き換えられています。神がお与えくださるものは「良い物」であるからこそ、求め続けること、探し続けること、たたき続けることが大切なのです。

 行き詰った人生の中で、人は自分の願いを諦めることだけに心を向け、挙句の果てには良い物に対する期待さえも失ってしまいがちです。

 そうした心を天に向けて引き上げてくださるのは、ただ天の父である神しかおられません、この方は誰よりもわたしたちのことをご存じであり、優しい父親のようにわたしたちを扱ってくださるお方です。このことを明らかに極めることが、希望へとつながっていきます。

 このお方に向かって、求め続けなさい、探し続けなさい、門をたたき続けなさいと、イエス・キリストはわたしたちを励ましてくださっているのです。


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