2024年4月11日(木)怒りと和解(マタイ5:21-26)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 法律と道徳は共通する部分もありますが、決定的に違う部分もあります。たとえば、わざと人を殺すことは法律的にも道徳的にも認められることではありませんが、殺したいと思うほど人を憎むこと自体は、法律では処罰することができません。しかし、道徳では、そのような思いを抱くこと自体、非難されるべきことだと考えられています。

 もちろん、人の心の中までも罰することができる法律を作れば話は別ですが、人の心の中を知ることはほとんど不可能ですから、そのような法律を作ったとしても意味がないか、あるいは悪用される可能性が高い法律になってしまいます。

 また、道徳的に非難される事柄は、時代や地域によって道徳的価値観が変化することがあります。たとえば、さきほどの殺人の例ですが、敵討ちは許されるか、という場合、江戸時代の価値観では厳格なルールの下で道徳的にも許される行為でした。今では法律的にも道徳的にも赦される行為ではありません。

 では、道徳と聖書の教えは同じでしょうか、これも共通する部分もありますが、決定的に違う部分もあります。例えば先ほどの例でいうと、人を殺すことは道徳的にも、聖書の教えにも反するという点で共通しています。しかし、なぜ人を殺してはいけないのか、というその価値観の根拠が異なっています。道徳や倫理で、それをどう説明するのかは、その人の価値観によって異なっているために、一つの説明ではありません。では、聖書ではそれをどう説明するのかというと、人が神の像に造られているからだ、という人間の尊厳に関わる問題としてそのことが取り上げられます(創世記9:6)。「神の像」という概念自体が宗教的な価値を含んでいますので、道徳や倫理とは異なっています。もちろん、道徳が宗教から大きな影響を受けることはよくあることなので、厳密な区別はできないかもしれません。

 きょうこれから取り上げようとしているイエス・キリストの教えは、倫理や道徳にかかわる話のようにも聞こえるかもしれません。しかし、その背後には神の義や神の御心と深いかかわりがありますので、ただの道徳的な話と受け取ることはできません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 5章21節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 前回取り上げた個所で、イエス・キリストは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と厳しいことをおっしゃっていました(マタイ5:20)。では、神が求める義とは何でしょうか。そのことを今日取り上げた個所とそれに続く個所で、イエス・キリストは人々に教えておらえます。

 今日取り上げた個所には殺人の罪が取り上げられています。イエス・キリストはその当時の人々が昔から聞かされてきた事柄をまず取り上げてこうおっしゃいます。

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」

 「殺すな」という教えはモーセの十戒の中でも禁じられている行為ですから、それを神の御心として守ることは、律法学者にとってもファリサイ派の人々にとっても、そして聖書の神を信じるすべての人にとっても共通の価値観であることは言うまでもありません。

 後半の「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉そのものは聖書にはありませんが、しかし、モーセの律法の中には、人を殺した者に対する裁きをどのように行うべきか指示した個所があります。例えば、民数記35章30節には「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。」と定められています。

 こうした聖書の教えを厳格に守ることが、律法学者やファリサイ派の人々の考える「神の義」でした。例えば、殺人者に対する証言は、誰の証言でもよいのか、ということが議論の対象となりました。彼らの目から見て「罪人」というレッテルを貼られた職業の人々の証言は有効か、という議論です。それはモーセの律法をより厳格に実際生活に適用していくために必要な議論であったかもしれません。

 しかし、イエス・キリストは「人を殺す」という、単に外に表れた行為を問題にされるのではありません。人に向かって起こる怒りやその人を蔑むような発言までも問題にされています。

 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)

 なぜなら、そのような態度や発言には、相手の人が神によって神の像をもって造られているという尊厳に対する思いが欠如しているからです。

 番組の冒頭でも紹介しましたが、聖書の価値観では、殺人の罪は人間の内にある「神の像」に対する侵害です。イエス・キリストは具体的な侵害に限らず、そのような具体的な行動を起こす原因となる心までをも問題とされます。

 イエス・キリストの教えは、そこにとどまるだけではありません。さらに踏み込んで、相手との和解をも求めています。

 言い換えれば、殺人の罪を犯さないということは、単に人を殺さない、というだけにとどまらず、そのような思いに至る心のとげまでも取り除くようにという勧めです。

 イエス・キリストがおっしゃる和解というのは、単なる妥協や落としどころというのとは違います。神の前に立つ人間として、相手を同じ神によって造られた人間として受け入れることです。

 神が求める義は、何かをしない、ということではありません。そうではなく、積極的に相手を愛しているか、というところにまで行きつきます。

 イエス・キリストは「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」という状況を持ち出しています。礼拝は神への愛をあらわす機会です。しかし、隣人への愛をないがしろにして、神への愛は成り立つことができません。

 このような教えは、とても実現できないと思うかもしれません。しかし、そのことこそイエス・キリストを救い主として受け入れるための大切な第一歩です。イエス・キリストはその教えの中で、人間の罪深さに気が付かせ、ご自分のもとへと来るように招いておられるのです。


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