2022年11月24日(木) 福音のために心を合わせて(フィリピ1:27-30)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人が宗教を求める動機やきっかけと言うのは千差万別であると思います。その動機の一つに挙げられるのは、心の安らぎを求めてということだと思います。不安や心配から解放され、この世の無用な戦いから逃れて、平安な心をもつこと、このことに宗教を求める意義を見出す人は案外多いと思います。

 確かに聖書の中には、平和や平安についての教えはたくさん出てきます。キリストご自身、わたしたちに「平安(平和)を与える」(ヨハネ14:27)と約束してくださっています。

 しかし、同じ主イエス・キリストは別のところで、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイ10:34)ともおっしゃっています。

 聖書は平和や平安について語るのと同じくらい、霊的な意味での戦いについても語っています。今学んでいるフィリピの信徒への手紙を書いたパウロも、ときどき好んで軍隊用語を用いてクリスチャンとしての霊的な戦いについて語っています。きょう取り上げようとしている個所も必要な戦いについて語られています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章27節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

 前回取り上げた個所では、パウロがフィリピの教会を再び訪問し、彼らの信仰を深めて喜びをもたらすことができるようにと期待している様子が描かれていました。しかし、パウロが望むとおりに牢獄から解放されてフィリピの教会を訪れることができるかどうかは、なお不透明な状況です。

 そこでどちらの場合にしても、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送るようにとパウロはフィリピの教会員に勧めます。というのも、フィリピの教会は一つの問題に直面していたからです。その問題と言うのは、福音に反する者がいたと言うことです。パウロはその反対者について具体的なことは書いてはいませんが、その反対者に対して、決して気を緩めてはならないと強く勧めています。

 きょうはパウロがこのフィリピの教会員たちに勧める霊的な戦いからいくつかのことを学んでいきたいと思います。

 まずはじめに、きょうお読みした個所には「戦い」という言葉が何度か出てきます。パウロはフィリピの教会員たちが、福音に反対する者たちに対して敢然と戦うことを望んでいます。しかし、パウロがここで先ず初めに勧めていることは、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」ということです。

 敵と戦うには色々な方法があります。何よりも先ずパウロが大切に思っていることは、相手を攻撃するという戦いではなく、むしろ、こちらがクリスチャンとして福音にふさわしい生活をして防御を固めると言うことです。「攻め」の姿勢ではなく「守り」の姿勢とも言うことができるかもしれません。クリスチャンとして福音にしっかり立って生活を送ることが、この戦いを勝利へと導いていく鍵なのです。福音にしっかりと立って生活を送ることが出来ない者が福音の反対者に挑んだとしても、いったいどうやって自分を防御することができるのでしょうか。

 ちなみにここでパウロが使っている表現「生活を送る」という表現ですが、聖書の中では、ここと使徒言行録23章1節にしか出てこない珍しい表現です。もともとは市民としてのふるまいに係る言葉でした。この表現を使ったのは、フィリピの教会員たちが、神の国の一員としてイメージされていたからでしょう。この言葉はまた、4章20節で「わたしたちの本国は天にあります」という表現にもつながっています。天に本国を持つ市民として、福音にふさわしく生きることがここでは求められているのです

 このことからも、パウロにとって戦いをイメージするときに大切なことが、もう一つ浮かび上がってきます。それは、この戦いが共同体の戦いとして考えられていると言うことです。クリスチャンである一人の個人が、一生懸命に頑張って戦いに勝利する…そういうことをイメージしているのではありません。むしろ教会としてどう戦うかが問われていると言うことです。ですから、「一つの霊によって」「心を合わせて」戦いに臨むことが強調されています。教会と言う共同体が一丸となって福音に堅く立つこと、心を合わせて戦おうとする意識、そのことが大切なのです。この戦いは一人、二人のクリスチャンが勝利すればよいという問題ではありません。キリストの福音を信じる共同体の存立が関わる戦いなのです。

 ところで、パウロがこの戦いについて語る時に、それを何か予想外の出来事として語ってはいないことに注意する必要があると思います。あるいはこの戦いがフィリピの教会が直面している特殊な状況によるものという考えはパウロにはありません。むしろ、パウロがこの戦いについて語るときに、それを起るべきものとして受け取っていると言うことです。しかも、パウロはそれを恵みによって与えられたものとさえ語っています。

 「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」

 パウロにとって、キリストを信じる恵みに与ることは、同時にキリストのために苦しむことも含まれているのだということなのです。キリストを信じることが恵みとして与えられているならば、キリストのために苦闘することも同じように恵みとして付随しているとパウロは述べます。

 この聖書の教えは、宗教と言うものをただ心の平安のためとだけ考える人にとっては分かりにくい教えだと思います。キリスト教を信じれば、平安がすぐにも訪れると考える人にとっては、失望さえ与えるかもしれません。

 しかし、この地上に教会が置かれている限り、この世との戦いは尽きることがありません。福音に敵対する者との対立も避けて通ることはできません。ただ、そのことを恵みとして受け取る時に、わたしたちはこの戦いを悲惨な気持ちからではなく、確信をもって戦い抜くことができるのです。


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