2022年9月22日(木) 指導者の模範に倣う(ヘブライ13:7-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が初めて行った教会は、宣教師のいる教会でした。それまでキリスト教にほとんど触れたことがなかった私にとって、その宣教師の先生はキリスト教そのものでした。その先生からにじみ出ていたことを通して、キリスト教の生き方、考え方を学びました。今は天に召されてしまったその先生ですが、ことあるごとに思い出されます。

 きょう取り上げようとしている個所は、指導者たちを思い出すようにとの勧めからはじまります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 13章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。

 「ヘブライ人への手紙」の13章には様々な勧めの言葉が記されています。きょうの個所では、指導者たちのことを思い出すようにと勧められています。おそらく、ここで言われている指導者たちというのは、イエス・キリストから直接教えを受けた第一世代の弟子たちのことを言っているのではないでしょう。そうではなく、この手紙の受取人たちが直接教えを受けた、もっと身近な指導者たちのことを指しているものと思われます。というのは、この13章には「指導者」という言葉がここを含めて三度使われていますが、ほかの二ヵ所では今なお指導を受けたり、挨拶をすることができる身近な人物であるからです。ですから、ここでいう指導者もそういう身近な人物のことを言っているのだと思われます。ただ、一点、7節に登場する「指導者」が違うのは、彼らが既に世を去っているという点です。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て」といわれるように、既にその働きを終えて、神のもとへと召された人たちです。しかし、自分たちの目で、その生涯の終わりをしっかりと見ることができるという意味では、やはり、身近な指導者であったことは間違いありません。11章に名前が挙げられた信仰に生きた人々とは違い、実際にお互いを知っているような間柄です。おそらく、初期のころにこの手紙の受取人たちの教会を建てあげてきた指導者たちのことを指しているのだと思われます。誰よりも身近で、もっとも彼らにとって影響のあった指導者たちです。

 その指導者たちのことを思い出すようにと勧めるのは、その人たちの信仰を見倣うためです。既に11章でも多くの信仰者たちの模範を学びましたが、身近な人の信仰の模範はそれとは違った意味で大切です。というのは、聖書に登場する人物は、要約された生涯の記録です。限られた記録の中からしか学ぶことができません。それに対して身近な指導者たちは、共に一緒に過ごす中で、様々な側面を見ることができた人たちです。一緒に過ごした時間は、たくさんのことを学び、たくさんのことを吸収した時間であったはずです。

 この手紙の著者は「彼らの生涯の終わりをしっかり見て」とわざわざ記しています。最初は信仰に熱心でも、やがてはキリスト教から離れていってしまう人たちがいる中で、最後までキリストのもとに留まり続けることは決して簡単なことではありません。最後までキリストを信じ続けてきた指導者たちの信仰だからこそ、見倣う価値があります。そしてまた、人間であった彼らが歩んだ道であるからこそ、見倣うことができるとも言えます。この手紙の著者は、立派に信仰を生き抜いた指導者たちを決して神格化したりはしません。同じ人間として後に続くことができる模範を遺してくれた人たちです。

 続く8節で、イエス・キリストに言及しているのは、人間の指導者と真の指導者であるイエス・キリストとの区別をあいまいにしないためであったのかもしれません。

 指導者たちが立派に信仰を貫いたのは事実でしたが、きのうも今日も、また永遠に変わることがないというわけではありません。現に、天に召されてからは、直接の指導を受けることはできませんし、相談に乗ってくれるわけでもありません。それに対して、イエス・キリストは今なお天において私たちを執り成し、聖霊を通して今なお導いてくださいます。そういう意味ではイエス・キリストと天に召された指導者たちを同列に置くことはできません。けれども指導者たちが示した模範は、あとに続く者たちにとっては、今なおキリストを指し示す道しるべなのです。

 様々な教えが周りにあふれることは、避けて通ることはできません。しかし、何が正しい教えで、何が間違った教えであるのか、惑わされることがないように注意が必要です。

 「エフェソの信徒への手紙」の4章には、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのは、彼らの奉仕を通して「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、……頭であるキリストに向かって成長して」いくためであることが教えられています(エフェソ4:11以下)。

 様々な教えの中で、この手紙の著者が特に懸念しているのは食物についての様々な規定でした。食物についての様々な規定はユダヤ教の中にありましたが、キリスト教会は異邦人を受け入れるにあたって、神によってこの規定から解放されました(使徒言行録10:9以下)。使徒たちが開いた会議もまた、食物規定についてはわずかな点を除いては異邦人たちを束縛しないことを決めました(使徒言行録15:20)。しかし、それにもかかわらず、たとえば「コロサイの信徒への手紙」は、食べ物や飲み物のこと、祭りや新月、安息日などのことで教会が惑わされる危険があることに注意を喚起しています。

 この手紙の著者もまた、そうした危険から読者たちを守るために、「食べ物ではなく、恵みによって心が強められる」ことを望んでいます。なぜなら、キリストを頂いている今、食物についての規定がもはや益となることはないからです。

 同じことをパウロは「コリントの信徒への手紙一」の8章8節でこう述べています。

 「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」。

 もし、周辺的な事柄にすぎない食物の規定を中心に据えてしまうのならば、それこそ、変わることのないイエス・キリストから離れていってしまうことになります。

 きょう取り上げた個所の最後、10節と11節は「贖いの日」の犠牲について述べています。このことについては既に9章7節以下で、地上の大祭司とイエス・キリストとを比較しながら論じました。そのとき、この手紙の著者は古い制度について「これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎ」ないと述べました。今はイエス・キリストによって完全な罪の贖いをいただいているのですから、古い時代に属する肉の規定から、わたしたちは完全に解放されているのです。


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