2022年8月18日(木) 霊の父が与える鍛錬の目的(ヘブライ12:9-11)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神を「父」と呼ぶのは、キリスト教会の特徴です。しかも、神を「父」と呼ぶのは単に神がすべてのものの造り主であるという理由からだけではありません。それは、まことの神の子であるイエス・キリストを救い主と信じることによって与えられる特別な親子関係です。

 しかし、そうは言っても、私たちが持つ「父」に対するイメージは、いつも人間の「父親」のイメージが先行してしまいがちです。実際、父なる神について語るときに、この地上の父親のイメージを抜きにして語ることは不可能です。

 今学んでいる「ヘブライ人への手紙」の12章でも、地上の父親と比較しながら、神が私たち信じる者たちを、神の子として扱っておられることを語っています。そこには地上の父親と共通する点があると同時に、大きな違いもあります。地上の父親のイメージに引きずられて、手紙の著者の言おうとしていることを読み間違えないように細心の注意が必要です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章9節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 前回の学びでは、信仰者として受ける苦難を、天の父なる神からの訓練として受け止めるようにとの勧めがありました。苦しみをただ苦しみとして考えるのではなく、神の子として扱われている恵みに心をとめるようにとの勧めです。

 きょうの個所でも、父親が自分の子供に訓練を与える、というそのイメージが引き継がれています。ただ、きょうの個所では、地上の肉の父親と、天にいます父なる神との違いにも心をとめながら、話を進めています。

 ただ、ここに登場する父親と子供のイメージはその時代を反映したものですから、今の時代の父親と子供との関係とは違っていることは言うまでもありません。しかし、程度の差はあっても、父親が子供の成長に関わっているという点は、今でもそうであると思います。そして、そのかかわり方は、時には子供から見て口うるさい父親であったり、時には自分の進路に立ちはだかる大きな壁に見えるときもあります。何でも子供の言いなりにならないこの父親の存在は、それ自体が子供にとって、これから独り立ちしていくための訓練です。

 ここに登場するその時代の父親は、それよりももっと積極的に子供を訓練する父親でした。そしてまた、それが社会一般に受け入れられていた時代でしたから、子供たちもそうした父親を尊敬し、父親の訓練には従順でした。

 そこで、この手紙の著者は、地上の肉の父親に対してさえそのように従順であるのであれば、なおさら天の父に対して従順であるようにと勧めます。それにはなおさらそうすべき理由があるからです。天の父なる神は、人間の父親とは比較にならないほど優れたお方であるからです。

 第一に、人間の父親が課す訓練は、子供が成長するときまでのものです。子供はやがては父を離れて、独立した家族を持ち、自分自身が父親となり母親となります。そうでないとしても、ある年齢に達すれば、もはや自分で自分のことは決めていくことができます。時には父親を超えるまでに成長することもあります。しかし、天の父なる神と私たちの関係は、いつかは神を必要としなくなる関係ではありません。天の父なる神は、わたしたちにとって一時的ではなくいつも、そしていつまでも父なるお方です。

 第二に、この地上の父親が与える訓練は、あくまでも父親が良いと考える訓練です。客観的にそれが常に正しいとは限りません。訓練の目的もまたその手段も、振り返ってみたときに、どこか間違っていたということも起こります。

 それに対して、確かに神もまたご自分の御心に従って人を訓練なさいますが、その御心には誤りがありません。思いつきで何かを始め、結局それが失敗に終わるということはありません。神の訓練には確かな目的があり、必ずその目的を成し遂げることができる力が神にはあります。

 神が訓練を与える目的を、この手紙の著者はこう述べています。

 「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」

 神が与える訓練には、神ご自身のきよさにまで私たちを引き上げてくださるという明確な目的があります

 確かに私たちはキリストの血によってすでに清められ、聖なる神の御前に大胆に進み出る恵みを頂いています。しかし、完全に聖なるものとなっているわけではありません。欠けがあり、罪の燃えかすがくすぶり続けている状態です。神と同じきよさにあずかるということは、決して瞬時に起こることではありません。この手紙の著者も、そのような瞬時に起こる清めを想定していません。「訓練」とか「鍛錬」という言葉を使っているのは、今日明日にでも実現できることではないからです。訓練や鍛錬によってもたらされる成長には時間がかかります。

 そのことを見越して、この手紙の著者はこう述べています。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

 少なくとも、父なる神が与える訓練には、当座は喜ばしいものではなく、かえって悲しいものと感じられる期間が存在するということです。スポーツ選手が0.1秒の壁を破るために、どれほど厳しい練習に励むか、そのことを考えただけでも、ここで著者が言いたいことは理解できると思います。

 信仰が成長し、神のきよさに近づいていくには、喜ばしいと思えることばかりを経験するわけではありません。理不尽と思えることの中にも、また明らかに自分の落ち度が招いた禍の中にも、神の見えざる御手の導きがあり、そういう積み重ねを経験することで、神のきよさへと導かれていくのです。そういう成長の過程を飛び越えて、一気に清められることを期待するのであれば、それこそ父なる神の訓練を軽んじることにほかなりません。

 手紙の著者が語っているように、「後になると」と過去を振り返って今到達した恵みに気が付かされる時が必ず来ます。

 私たちが信仰のゆえに受ける苦しみは、決して神があずかり知らない苦難でもなければ、神にはどうすることもできない苦しみでもありません。そこにも私たちを成長させようとする神の確かな目的が隠されているのです。

 この父なる神の深い御心と善意とを信じて、信仰の歩みを続けていきましょう。