2022年1月13日(木) 大祭司としてのキリスト(ヘブライ5:5-10)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教教理の用語に「キリストの三職」という言葉があります。「さんしょく」というのは、耳で聞くと三つの色のことを言っているのか、三回の食事のことを言っているのか、同音異義語がたくさんあってわかりにくい言葉です。目で読めばすぐわかるのですが、キリストが果たす三つの職務のことを「キリストの三職」と呼んでいます。

 もともと「キリスト」という言葉は、ヘブライ語の「メシア」という言葉のギリシア語訳で、「油注がれた者」という一般名詞です。古代イスラエルでは、王、祭司、預言者の三つの職務が、油注ぎという儀式によって任命されました。この場合の油は、神の霊を象徴し、神がその人物を特別な職務に任じたことを表しています。

 それで、「キリストの三職」というのは、イエス・キリストこそ、まことの王であり、まことの祭司であり、まことの預言者である、という教えです。

 これは明快な教えのように見えますが、イエス・キリストの時代の人々にとっては、必ずしも明快ではありませんでした。確かに王も祭司も預言者も、油を注がれて任職されたのは事実ですが、一人の人物が同時に王であり祭司であり預言者であるということは、ありえませんでした。特にイスラエルの最初の王であったサウルが、祭司の職務をも果たしたことで神から退けられたという話がサムエル記に記されていることを知っている者たちにとっては、王である者が同時に祭司であるという主張には、そう簡単には同意できなかったと思われます(サムエル記上13:8-14)。

 この難題に正面から丁寧に取り組んでいるのは、実は新約聖書の中では「ヘブライ人への手紙」だけです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 5章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

 前回取り上げた個所では、アロンの系列に属する大祭司の資格について学びました。そこで論じられたことは二つのことでした。一つは神の民の代表として、民の弱さを思いやることができる者であるということ、もう一つは、自分でその職務に就くのではなく、神から任じられてその職務に就くということでした。

 今日取り上げた個所では、まず、キリストも神から任じられた大祭司であるということが取り上げられます。そのために、ここでは旧約聖書から二つの個所が引用されています。最初に引用されるのは詩編2編7節の言葉です。

 「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」

 この詩編は王の即位を内容とする詩編であることは、良く知られています。引用された箇所の直前でも、「聖なる山シオンで、わたしは自ら王を即位させた」と宣言する神の言葉が記されています。

 そうすると、キリストが神から任じられたということは確かではあっても、それは大祭司としてではなく王としてではないか、という反論が聞こえてきそうです。

 もとより、「ヘブライ人への手紙」の1章3節では「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きにな」った御子イエス・キリストについてすでに述べているのですから、今さら、キリストの王権について触れる必要もなければ、議論の流れからも、ここでキリストの王権に言及するのはふさわしくないように思われます。

 しかし、冒頭でも述べた通り、王であり同時に大祭司であられるイエス・キリストを論証することは、「ヘブライ人への手紙」の著者には避けて通れないことでした。

 神から任じられたまことの王であることを詩編2編から引用しつつ、詩編110編4節から引用して、キリストが神から任じられた王であり祭司であることを論証します。

 王族であるダビデの家系から生まれたイエス・キリストが王であるなら、アロンの家系に属する大祭司にはなれないという当時のヘブライ人の常識を、詩編110編は覆しています。

 この110編の1節が述べる「わたしの右の座に就くがよい」と言われているのは、明らかに「王」についての言葉です。しかし、その王に対して、4節では「あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」と神自らが呼びかけています。メルキゼデクという人物はアブラハムの時代に登場する人物でサレムの王でありいと高き神の祭司でした(創世記14:18)。

 「ヘブライ人への手紙」の著者は、この詩編110編を来るべきメシアを預言した詩編と理解して、イエス・キリストこそ神から任じられた大祭司であることを論証しています。この手紙の著者にとって、イエス・キリストは、アロンの家系に属する大祭司と同様に神から任じられた大祭司であるばかりでなく、同時に王でもあるという点で、アロンとの違いをも強調しているのです。

 大祭司の資格のもう一つの点、「民の弱さを思いやることができる」という点でも、アロンの家系に属する大祭司との共通点を見出すと同時に、それ以上のお方であることをも強調しています。

 5章7節にはこう記されます。

 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」

 ここで描かれる場面は、ゲツテマネの園での祈りを思い起こさせます。その場面を描くマルコによる福音書14章には、「ひどく恐れてもだえ始め」「わたしは死ぬばかりに悲しい」と嘆くキリストの姿が記されています。その祈りの言葉は「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」というものでした。

 この祈りは単に死を恐れ、そこから逃れようとする祈りではありませんでした。すべての人の罪を背負って、身代わりの犠牲として十字架に向かう者の祈りでした。誰よりも深く、罪の支払う報酬である死を知り、それを身に負うことの恐ろしさを知っている者の祈りです。そこから逃れるのではなく、自分に与えられた使命、神の御心がなることを願う祈りでした。そういう意味で、キリストは、真に罪人の側に立ち、罪に対する神の怒りに慄く者たちに最後まで寄り添ったお方です。

 キリストはアロンの家系に属する大祭司以上に、私たちの弱さに寄り添うことのできるお方です。そのような救い主をわたしたちは神からいただいているのです。


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