2021年12月2日(木) 今日という日に励ましあおう(ヘブライ3:7-15)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今取り上げている『ヘブライ人への手紙』は、ある意味難解な手紙であると思います。先週の放送を聴いて、さっそくお便りをくださったリスナーさんがいました。様々な質問を書いてくださった後で、最後にこんな感想を寄せてくださいました

 「イエスがモーセに勝る方であることは承知していますが、何故、このような感想を記したかと言いますと、聖書の断片断片を覚え、その脈絡というか文脈というかそれを整合的に理解しにくい、私のような者がいる、つまり、正しい聖書理解を得させる、ことに気を割いて頂ければ、との思いからです。」

 バルナバさん、いつも丁寧に番組を聴いてくださってありがとうございます。時間的な制約から、細かな説明を省略しているために、たくさんの疑問や理解しにくい点があることをお許しください。『ヘブライ人ヘの手紙』の難しさは二つの点にあると思います。一つはユダヤ人を相手に書いている手紙であるために、旧約聖書の知識が当然の前提となっているという点です。旧約聖書の話を知らなければ、ちんぷんかんぷんな手紙です。しかし、ほんとうの難しさは、この手紙の受取人が置かれている状況について、わたしたちには正確な知識がほとんどないという点です。というのはキリスト教が生まれたころのユダヤ教諸派の教えや思想について、また、当時どのように聖書を解釈していたのか、その多様性について、それぞれの思想的依存関係について、まだまだ未知な点が多いからです。今まで取り上げてきた「天使」や「モーセ」に対するキリストの優位性の問題は、なぜそれを主張しなければならなかったのか、いったいどんな思想の持ち主のユダヤ人を相手にこの手紙が書かれているのか、まだまだわかっていないことがあります。

 ただ、ところどころ難しさはありますが、キリストから離れず、しっかりと信仰を持ち続け、真の安息に入ってほしいという執筆の意図は明確であるように思います。その意図が伝わるように学びを続けていきたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 3章7節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、聖霊がこう言われるとおりです。
 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、40年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」
 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。それについては、次のように言われています。
 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」


 今日取り上げた個所もまた旧約聖書の引用から始まります。それは詩編95編後半からの引用ですが、引用するに当たって、「だから、聖霊がこう言われる」という書き出しで引用をはじめています。

 聖書に記された言葉は、究極的には神の言葉であるという信仰が、この手紙の著者にはあります。もちろん、この手紙の4章7節で言われているとおり、ダビデという人間の作者がこの詩編にかかわっていることを知らずにそう言っているわけではありません。人間の作者の背後に神の働きかけがあり、書き記された言葉が、神の言葉として、今も聴く人に対して語りかけているという信仰がその背景にあります。そうであればこそ、「だから、聖霊がこう言われる」と、まるで、今、自分たちに語りかける言葉のように、詩編の言葉を引用しています。

 では、何のためにこの詩編から引用したのでしょうか。「だから、聖霊がこう言われるとおりだ」といわれる「だから」というのは、どこからつながっているのでしょうか。

 前回取り上げた直前の3章6節は「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」という言葉で終わっていました。「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」という言葉の背後には、「もし持ち続けないならば、わたしたちはもはや神の家ではない」という思いが込められています。その心配こそ、この詩編が引用された理由です。

 引用された詩編の個所には、モーセによってエジプトから導き出されたイスラエルの人々が、神への不信仰と反逆によって安息に入ることができなかったという、過去の歴史が顧みられています。その民族の歴史を踏まえて、この詩編では、礼拝に集おうと来る者たちに、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と警告しています。

 この詩編の言葉は、この手紙の著者にとって、過去のイスラエル人への警告の言葉ではありません。まさに自分たちへの警告として聴かれ、引用されています。

 すでにイエスの兄弟とされ、イエスを大祭司としていただき、神の家とされたこのわたしたちが、かつて心をかたくなにしてしまったイスラエルの過ちを再び犯さないために、この詩編から引用し、自分たちヘの警告の言葉として耳を傾けるようにと勧めています。

 3章12節以下に記された言葉は、引用した詩編の言葉の具体的な適用です。

 「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。」

 この警告に対して、自分は大丈夫と過信してはなりません。どんな時にもキリストの救いの恵みに依り頼む信仰の姿勢を持ち続けることが大切です。なぜなら、救いの根拠は自分自身のうちにあるのではなく、キリストのうちにあるからです。

 反対に、自分は心をかたくなにして、救いの恵みから離れてしまうのではないかと、委縮してしまうことも、この手紙の著者の願いではありません。そうならないために「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい、と勧めています。

 励ましあうこと、これは信仰生活を送るうえでとても大切なことです。信仰というのは決して一人の問題ではありません。この手紙では、キリストを信じる者たちを「神の家」というイメージで語りました。建物としての家も、そこに住む家族も、決して一つの材料、ひとりの人間ではありません。集合体、共同体のイメージです。そのようにこの手紙の著者は信仰者を共同体に生きる者たちと考えています。それは決していがみ合ったり足を引っ張りあったりする者たちではありません。互いのために祈りあい、励ましあう共同体です。

 この手紙の著者の願いは明白です。今も、そして将来も、キリストに連なる者として生き続けることです。そのために希望と確信を持ち続け、くじけそうになる時には互いに励ましあって支えあうことです。キリストがすでに信じる者たちをとらえていてくださっているからこそ、いっそう励ましあって信仰に生きることが大切なのです。


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