2021年7月29日(木) 逆転するユダヤ人の立場(エステル9:1-10)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書を読むときに、とても残虐な内容が記されている場面に出くわすことがあります。そういう場面に遭遇するときに、とても戸惑いを感じます。

 今日取り上げる個所にも、敵を1人残らず剣にかけて討ち殺したり、敵の息子を10人も殺した記事が出てきます。そもそも相手の方が先に邪悪な計画で民族の根絶を計ったのですから、自分たちのいのちを守るために反撃に出るのは当然だといえば、そうかもしれません。

 しかし、敵の息子たちまでも剣にかける必要があったのか、というのは疑問が残らないではありません。もちろん、聖書には詳しい状況がつまびらかに記されているわけではありませんから、ユダヤ人たちの行動が正しかったのかどうかを判断することはできません。ですから、気をつけなけばならないのは、こういう個所を読んで、安易に自分の行動を正当化してはいけないということです。聖書には詳しい状況が記されているわけでもなく、また、その行動が正しいこととして明白に肯定されているわけでもない個所がいくらでもあります。こういう個所を読むときには注意が必要です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 9章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 第12の月、すなわちアダルの月の13日に、この王の命令と定めが実行されることとなった。それは敵がユダヤ人を征伐しようとしていた日であったが、事態は逆転し、ユダヤ人がその仇敵を征伐する日となった。ユダヤ人はクセルクセス王の州のどこでも、自分たちの町で、迫害する者を滅ぼすために集合した。ユダヤ人に立ち向かう者は1人もいなかった。どの民族もユダヤ人に対する恐れに見舞われたからである。諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちは皆、モルデカイに対する恐れに見舞われ、ユダヤ人の味方になった。モルデカイは王宮で大きな勢力を持ち、その名声はすべての州に広がった。まさにこのモルデカイという人物は、日の出の勢いであった。ユダヤ人は敵を1人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。要塞の町スサでユダヤ人に殺され、滅ぼされた者の数は500人に達した。そして、パルシャンダタを、ダルフォンを、アスパタを、ポラタを、アダルヤを、アリダタを、パルマシュタを、アリサイを、アリダイを、ワイザタをと、ユダヤ人の敵ハメダタの子ハマンの10人の息子を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。

 前回の学びでは、ユダヤ人根絶のためにハマンが企てた勅令に対抗するため、新たな勅令が発布されたことを学びました。その勅令の主な内容は、ユダヤ人が自分たちの命を守るために団結して敵対勢力に抵抗し、反撃することを認めるというものでした。

 ハマンが計画したユダヤ人迫害の日に合わせて、対抗する側も準備を整えました。いよいよその日がやってきます。第12の月、すなわちアダルの月の13日がその日です。きょう取り上げた個所には、その日の様子が描かれます。

 前もってハマンに対抗する勅令が発布されていたこともあって、実際にはハマンの計画を実行しようとする者はほとんどいなかったようです。ふたを開けてみれば、「事態は逆転し、ユダヤ人がその仇敵を征伐する日となった」と記される通りです。

 そもそもユダヤ人を根絶しようと計画したハマン自身はすでに失脚し、自分で用意した巨大な柱につるされて処刑されていました。対するモルデカイは王の信頼を得て、その地位は確固たるものとなっていました。この状況の中でハマンが起草した勅令を実行しようとする者などいるはずもありません。「どの民族もユダヤ人に対する恐れに見舞われた」とは、その通りだと思われます。

 形勢がどちらに有利になっているかは、諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちの誰もが敏感に感じ取っています。今や王宮で大きな勢力を持っているのはモルデカイです。モルデカイの味方につく方が、後々のためにも有利であることは明らかです。すべての情勢がユダヤ人を益するために動いているとしか思えません。

 しかし、それでもユダヤ人を根絶しようと、戦いを挑んでくる者たちがいました。都スサだけで500人がユダヤ人の反撃に遭い、殺されています。これらの人々は、かつてハマンの勢力のもとにいた人たちでしょう。ハマンの失脚のあおりで、梯子をはずされたようなものです。その時点でユダヤ人側に寝返ることもできなくはなかったでしょう。しかし、ハマンのもとにいた時のような待遇を受けられる保証はありません。戦わないで冷遇に甘んじるよりも、戦って万が一にも勢力を取り戻せるなら、そのチャンスを掴みたいと思ったのでしょう。

 殺されたハマンの10人の息子たちに至っては、その名前がすべて書き記されています。彼らが10人揃って父親のハマンの計画に賛同し、ユダヤ人根絶に乗り出していたのか、それとも、ハマンの息子という理由だけで殺されてしまったのか、このあたりは定かではありません。ユダヤ人たちがモルデカイの出した勅令に忠実であれば、無抵抗な息子たちをハマンの近親者だからという理由では殺しはしなかったでしょう。しかし、戦争というのは、いつも混乱がつきものです。ルールがあってルールがないようなものです。現代の戦争の国際的なルールでは、戦闘員以外を攻撃の目標としてはならないと定められていますが、実際には無差別に攻撃にさらされることが起こるのが現実です。もしかしたら、息子たちの何人かは戦闘に参加していない者もいたかも知れません。こういう戦記物は常に勝利者の視点で書かれているために、あらゆることが美化されて受け取られてしまいがちです。この点は冷静に聖書を読むことが大切です。

 さて、今日の個所で一番気になるのは、5節に記される言葉です。

 「ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。」

 「思いのままにした」とはいったいどういう意味でしょうか。ほしいままに、やりたい放題、無差別に敵を殺害したという意味でしょうか。そうだとすれば、聖書は勝利者側の無秩序な行き過ぎを描いていることになります。後に明らかになる通り、『エステル記』はプリムの祭りの起原を記した書物です。喜ばしいはずの祭りの背景に人間の残虐さがあることを聖書は語っていることになります。

 そうではなく、「思いのままにした」とは、モルデカイが起草した勅令をだれにも妨害されることなく果たすことができた、という意味であるとすれば、ユダヤ人たちの勝利が決定的であったことを語る表現ということになります。この意味で「思いのままにした」と記されているのだと思いたいのですが、聖書は人間の罪深さを隠さずに記すことがありますので、無差別な戦闘が行われたという意味で「思いのままにした」というその解釈も捨てがたい気がします。

 こういうところは聖書を読む難しさです。しかし、人間の罪深さの中にあっても、神の救いの御業が突き進んでいく姿を読み取るときに、聖書全体の救いのメッセージを深く味うことができるのです。