2020年12月24日(木) 一筋の希望の光(ルツ2:17-23a)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今住んでいる街は、首都圏にある人口40万ほどの都市ですが、近所の住宅地を散歩していると荒れ放題になった空き家を目にするようになりました。跡を嗣ぐ子供がいなかったのか、あるいは、いても遠方で管理が行き届かないのかもしれません。もし、跡取りがいなければ、やがてはその土地は国有地となり、その家の家系も忘れ去られていってしまいます。
一般庶民にとっては、家系がとだえるということは、それほど大問題ではないかもしれません。しかし、何百年も続く名家ともなると、それは大問題です。養子を迎えたりと大変な苦労をされるようです。将軍や大名に側室がいたのは、お世継ぎ問題を解決するひとつの方策でした。
旧約聖書時代のイスラエル人にとっても、家系や土地を受け継ぐことは、非常に大切なことでした。というのも、それらは神からいただいた特別な恵みだったからです。選民としての意識も強かったと思います。選民が途絶えてしまえば、アブラハムに対する神の約束も無効になってしまいますから、家系を受け継ぐ子孫の存在は重要な問題です。
古代イスラエルには、それに関する二つの制度がありました。ひとつは、女性にも土地を受け継ぐ権利が認められていました。土地はそれぞれの氏族に神から与えられた恵みですから、それが途絶えないように女性にも土地が分け与えられました。『民数記』の27章7節にはこう記されています。
「あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。」
もう一つの制度はレビレート婚(あるいはレビラト婚)と呼ばれる婚姻制度です。この制度はイスラエル以外にも見られる制度ですが、『申命記』25章6節以下にはこう記されています。
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」
ルツ記の背景には、こうしたイスラエル人の意識があったことを頭の片隅において読み進める必要があります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 2章17節〜23a節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は1エファほどにもなった。それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。
ルツは、そうとは知らずに、姑ナオミの親族にあたるボアズの畑で日が暮れるまで落穂を拾い集めました。前回も学んだ通り、そのようにルツが安心して落穂を拾うことができたのは、ボアズの特別な配慮によるものでした。
1日で集めた落穂から取れた大麦は1エファとあります。それはおよそ23リットルにあたる量です。そういわれてもピンと来ないかも知れません。大麦1カップがおよそ4百キロカロリーと言われていますから、成人女性の1日の必要カロリーの4分の1から5分の1がそれで賄えます。23リットルなら女性二人で1週間は十分に過ごせます。ちなみに、エリヤの時代に干ばつが襲ったとき、サレプタ住むやもめは壺の中の一握りの小麦粉と瓶の中のわずかな油で1食分作るのが、親子二人の最後の食料でした。それと比較すれば、有り余るほどの分量です。
姑のナオミが目をみはったのも無理はありません。一目見れば、それは落穂拾いだけで得られる分量ではないことは、ナオミにもわかったはずです。その上、飽き足りて残した食べ物までも持って帰って来たのですから、いったいどんな方の畑に行ってきたのか、ナオミが聞かないはずはありません。
ナオミは「どこで」を連発します。「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。」
しかし、それを知ったからと言って、ナオミには恩返しをするだけの余力もありません。ただただ、その人の上に神の祝福を祈るばかりです。
ルツの世話になった畑の持ち主が、自分の親戚筋の人ボアズであることを知ったナオミは、さらに言葉を強めてその人の祝福を願います。
「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」
生きた人に対してならともかく「死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」という表現には、ナオミの特別な思いが表れているように思います。ナオミにとってそれは二重の意味でそうでした。
ナオミはかつて飢饉を逃れて家族ともどもモアブに移住しましたが、そこで最愛の夫を失い、家を継ぐはずの二人の息子たちも相次いで亡くなってしまいました。人々の記憶からは、夫のことも息子たちのことも、すっかり忘れ去られていたかもしれません。風前の灯のようなこの家族を、主が顧みてくださったという思いは、ナオミの心にどれほど希望をもたらしたことでしょう。
「信仰」という意味でも、ナオミは死んだような希望のない自分を顧みてくださった主への感謝の思いは、隠せません。
故郷のベツレヘムに帰って来たとき、ナオミが口にした言葉は「主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに」という思いでした。このまま主の恵みのうちを再び歩むことができないかもしれない、という信仰的な死を経験していました。
しかし、思いを超えた方法で、神はナオミたちに恵みを与えてくださいました。ルツがお世話になった畑の持ち主であるボアズは、ナオミたちの家を絶やさない責任のある親戚でした。
ナオミが最初の驚いたのは、ルツがその日に得た食料の多さでした。しかし、それ以上に驚いたのは、行った先の畑が、自分たちの親戚筋であったという不思議です。
しかし、それにも勝ってナオミにとっての驚きは、そのように自分たちを支えてくださる生けるまことの神との再びの出会いです。ナオミにとってこの日、一番うれしかったことは、神の顧みを一連の出来事の中に確信したことでした。食料の多さが人を幸せにするものではないことは、ナオミはすでにモアブでの移住で経験済みです。主の顧みがあることこそ、ナオミにとって一番の喜びでした。
偶然のように見えるこの出来事の中に、ナオミは生きて働かれる神の希望の光を見出したのです。