2020年12月10日(木) ボアズとルツの出会い(ルツ2:1-7)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書『箴言』の中に「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。」という言葉があります。それは「天にある鷲の道、岩の上の蛇の道、大海の中の船の道」そして、それらに加えて「男がおとめに向かう道」と続きます。

 男女の出会いというのは、しばしば人間の目には道理があるようには思えないことがあります。幼い頃から互いを知っている二人が必ずくっつくとは限りません。一目ぼれという言葉があるように、たまたま出会った二人が意気投合することもあります。

 周りが不釣り合いだと思っても、当人同士が気に入ってしまうこともあります。周りはそれを揶揄して「美女と野獣」と茶化したり、まるで「シンデレラ」みたいな話だと驚いたりします。

 『ルツ記』に登場するルツとボアズの出会いも、人間の目から見れば、偶然の出会いのように見えますし、不釣り合いな二人のようにも見えます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 2章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。ボアズが農夫を監督している召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」

 ナオミたちがモアブの地からベツレヘムに帰って来たのは、ちょうど大麦の刈り入れの始まる春でした(ルツ1:22)。刈り入れを待つ大麦の穂の金色が、風になびく景色を見て、ナオミは飢饉の前の昔を思い出したことでしょう。

 『ルツ記』2章1節は、ボアズの紹介から始まります。モアブの地で亡くなったナオミの夫エリメレクの有力な親族です。もちろん、ナオミはボアズのことを知ってはいましたが、自分たちの人生に大きく関わるようになるとは、この時少しも思ってはいなかったでしょう。

 ナオミと一緒にベツレヘムにやってきたルツは、さっそく自分たちの食べ物を得るために、落穂拾いに出かけようとします。

 幸いなことに、モーセの律法には、畑の収穫に関する規定がありました。そこには、こう記されています。

 「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」

 これはレビ記 19章9節以下に記されている規定ですが、同じような規定はモーセの律法に繰り返し出てきます(レビ23:22、申命記24:19)。このような規定が定められているのは、隣人愛の観点からも当然のことですが、申命記では次のようにその理由を述べています。

 「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24:22)

 自分たちがエジプトで経験した苦しい生活を思い起こし、同じ思いを社会的な弱者にさせてはいけないという人道的な配慮ということもあるでしょう。それと同時に今ある繁栄を神からの恵みととらえて、その恵みを独り占めしてはならないという宗教的な訓練もここには込められています。

 ルツがこの規定のことを知ったのは、ナオミの口を通してでしょう。しかし、ナオミは決してルツに落穂拾いに出かけるように促したわけではありません。ルツの自発的な申し出に対して、「わたしの娘よ、行っておいで」と送り出します。

 この二人の会話は何気ない会話のように聞こえますが、しかし、その背後にはそれぞれの信仰を見て取ることができます。

 ルツにしてみれば、確かにモーセの律法にはそのような規定があるとは知っていても、それが必ずしも守られているわけではないことは、簡単に想像がついたはずです。人は罪人なのですから、嫌な顔をする畑の持ち主もいれば、意地悪な態度をとる使用人たちもいるかもしれません。ルツは「だれか厚意を示してくださる方の後ろで」と述べて、そのような人との出会いをきっと主が備えてくださると信仰的に期待しています。

 ナオミもまたルツの申し出にそのような信仰を見たからこそ、「わたしの娘よ、行っておいで」と送り出すことができたのでしょう。落穂拾いに関する規定が、やもめや孤児や寄留者のために定められたとはいえ、実際には行った先でルツがどんな嫌な経験をするか、分かったものではありません。しかし、この二人が抱いていたのは、起こるかもしれないことへの不安ではなく、それを乗り越えさせてくださる主への期待でした。同じ信仰に立つ者として、ナオミはルツを見送ったのでしょう。

 さて、ルツが出向いた先は、図らずもボアズの所有する畑でした。ボアズは自分の畑にやってくると、目ざとくルツに気が付きます。それは、見慣れない若い娘だったから、ということもあったでしょう。しかし、そればかりではありません。ボアズがルツを見出したのは、ルツが一生懸命働く姿ではなく、小屋で休んでいる姿です。ボアズにしてみれば、見ず知らずの娘が、人の畑の小屋に来て休んでいるのを見て、最初はいぶかしく思ったかもしれません。そうであればこそ、すかさず監督を任されている農夫に尋ねます。

 「そこの若い女は誰の娘か」

 娘について聞かされたボアズに何重もの驚きがありました。ひとつは、その女性がモアブの女であることです。それを告げる農夫も「モアブの野から来たモアブの女」とルツのこと紹介して、女がモアブの出身であることを二度も強調しています。

 もう一つの驚きは、その女性が、自分の親戚筋にあたるナオミと一緒に戻ってきたあの女性であることを知った驚きです。ボアズは噂ではナオミたちのことを耳にしていたはずです。しかし、まさか自分の畑で落穂拾いをするとは、想像もしていなかったことでしょう。

 さらには、この若い娘が、朝から今までずっと立ち通しで働いていたという事実を聞かされた驚きです。それも、自分ひとりのためではなく年老いたナオミのためであることを、ボアズはすぐに思い至ったはずです。異邦人でありながら、見ず知らずの外国へやってきて、義理の母親のために懸命に働くルツの姿を見て、ボアズは心を動かされないはずはありません。

 こうして、ボアズとルツの出会いが起こりました。ルツがやってきたのは「たまたま」ボアズの所有する畑であったと人間的な観点で聖書は記します。しかし、この「たまたま」の背後に神の不思議な導きがありました。『ルツ記』は、この神の導きに身をゆだねる一人の女性の話なのです。