2020年12月3日(木) ナオミと呼ばないでください(ルツ1:19-22)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 名前というのは、それを名付ける人の気持ちがこもっています。初めての子供に付ける名前は、それこそ、両親ともに思案の挙句やっと決まります。

 最近ではキラキラネームと呼ばれる名前が多く、使われる漢字の意味よりも音の響きを大切にすることもあります。それもある意味名前へのこだわりの表れです。

 昔から日本では、「名前負け」ということが言われてきました。あまりにも立派過ぎる名前は実物と不釣り合いになることがあるので、敬遠されるものでした。例えば、自分の子供に「家康」とか「信長」など、好んでつける人はいないでしょう。

 しかし、そこまで大きな名前を付けないとしても、名前にはそれを付けた人の願いが込められています。幸せな子供に育ってほしいと願えば、「幸子」とか「幸雄」などと命名します。『ルツ記』に登場するナオミの名前も、その意味は「快い」という意味でした。ところがナオミにとって、自分の名前ほど恨めしいと感じたことはありませんでした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 1章19節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。

 モアブの地を旅立って、ナオミとルツはベツレヘムに到着します。ナオミにとっては自分が生まれ育った故郷です。ルツにとっては初めて訪れる外国です。二人にとって、ベツレヘムにやってくることは、期待と不安が入り混じった複雑な心境だったと思います。

 ナオミにしてみれば、昔、ベツレヘムは住んでいた場所でしたから、外国のモアブよりはずっと知り合いの数も多かったはずです。親戚もいますから、心強いということもあったでしょう。その反面、飢饉のときに、長年住み慣れた町を捨てて出ていった自分を、果たして町の人々が歓迎してくれるかどうか、不安もあったはずです。まして、見ず知らずのモアブの女ルツを連れ立っての帰郷です。

 ルツにしてみれば、ベツレヘムは新天新地のようなものです。何もかもが目新しく映ったことでしょう。高揚感の方が勝っていたかもしれません。ただ、自分がモアブの出身であることは、この国では受け入れがたいということを、ナオミの口を通して聞かされていたかもしれません。どんな生活が待ち受けているか、不安は隠しきれなかったことでしょう。

 二人を迎える町の人々の反応は、というと、町中が二人のことでどよめいたとあります。このどよめきの意味は、決して一様なものではなかったはずです。昔、町を捨てて出ていったナオミそっくりな人が、突然町にやってきたのですから、どよめかないはずはありません。それは、懐かしさのためのどよめきもあったことでしょう。しかし、みんなが歓迎のどよめきをあげたとは限りません。中には批判的な思いの人もいたはずです。どの面提げて帰って来たのか、と心の中で思う気持ちがどよめきになったのかもしれません。

 しかも、戻ってきたのは女二人だけです。出ていくときはナオミと夫と二人の息子の家族でした。しかも、飢饉の最中に海外へ移住できるほど、余裕のある家族でした。ところが、今、町の人たちが目にしているのは、どう見ても裕福な姿ではありません。しかも、夫の姿も息子たちの姿も見当たりません。いったいこの家族に何が起こったのか、町の人たちにしてみれば、どよめかざるを得ません。

 ナオミに同行している女性が一体だれなのか、それもどよめきの原因だったことでしょう。ナオミがモアブの地で産んだ娘なのか、それとも、息子たちが迎えたお嫁さんなのか、それだけでも、町の人たちには興味津々だったはずです。

 そうしたどよめきの中、町の女性たちが、「ナオミさんではありませんか」と声をかけてきます。ナオミの反応から想像すると、声を掛けられたくなかったようです。それが善意から出た言葉にせよ、好奇心から出た言葉にせよ、あるいは、皮肉から出た言葉にせよ、ナオミには辛い言葉に響きました。

 何よりも、ナオミ自身が、自分の境遇について誰よりも知っていたからです。あわせる顔がないとは、こういうことを言うのでしょう。

 自分の名前の意味が「快い」という意味ですから、そう呼ばれることは、一層辛いことでした。ナオミは思わず口走ります。

 「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」

 この時ほど、自分の名前と今の境遇を比べて、自分の名前を恨めしく思ったことは、ナオミの人生でなかったことでしょう。

 この後に続くナオミの言葉は、一見、主なる神への恨みつらみに聞こえます。

 「出て行くときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

 この言葉を、神への恨みととっては、あまりにもナオミが気の毒です。まして、ナオミは自分のことを少しも反省していないなどと非難することは当たっていません。

 飢饉のおりに、町を捨てて出ていったことは、ナオミの独断ではありませんでした。当時の一般的な夫婦の力関係から考えれば、ナオミは夫に従っていくしかありませんでした。

 ナオミは今自分に与えられている境遇を、決して夫のせいにはしません。あるいは、夫を止めなかった自分が悪かったとも言いません。もちろん、そう思った時もあったかもしれません。しかし、今は、すべてが主から与えられた試練として、それを受け止めているということでしょう。

 町の人たちは冷たく言い放つかもしれません。「何もかも、あんな決断をしたあんたの夫が悪い」と。「それを止めなかったあんたも自業自得だ」と。

 しかし、どんなどん底にあっても、頼れるのは主である神だけだと、ナオミは信じていました。この試練も神が与えてくださった試練だと真摯に受け止めれば、そこから逃れる道もきっと主が備えてくださると、ナオミは心の中で信じていたのでしょう。ナオミのあの言葉は、主なる神に真剣に向き合ってきたからこそ出た言葉です。それは、人生で経験する苦しみを、安易に人のせいにする姿勢でもなければ、自分のせいだと苦しんでしまう姿勢でもありません。まして、それを神のせいにするのでもありません。ただ、この苦しを受け入れ、神と向き合い、それを乗り越えていこうとする信仰の姿勢です。そうでなければ、モアブの女性を連れて、再び故郷へ戻る決断などできなかったことでしょう。