2020年11月12日(木) ナオミを襲った悲しみ(ルツ1:1-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうから、新しい聖書の個所を取り上げて学びます。今回取り上げるのは旧約聖書に記された『ルツ記』と呼ばれる美しい物語です。ルツという女性は異邦人でしたが、この人の子孫から、ダビデ王が生まれ、やがては救い主イエス・キリストが誕生します。もちろん、ルツ自身は自分の子孫から救い主が生まれるようになるとは、想像することもできなかったでしょう。
イスラエスから見て、ルツの出身であったモアブ民族は、敵対する民族でした。しかし、神のなさることは、人間の知恵や思いをはるかに超えていることを、この物語は示しています。モアブ民族出身のこの人が、イスラエルの民に加わるようになったのは、神の不思議な導きです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 ルツ記 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
この『ルツ記』の話は、「士師」と呼ばれる人たちがまだイスラエルの世を治めていたころの出来事です。モーセに率いられたイスラエルの人々がエジプトを脱出し、カナン、つまり今のパレスチナに定着し始めた時代の出来事です。およそ紀元前12世紀ごろの話で、ダビデ王から見て曽祖父母の時代の出来事です。
『ルツ記』は旧約聖書の中では『士師記』の次に置かれています。その『士師記』の一番最後の章には、その時代がどんな時代であったのか、こう記されています。
「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師21:25)
この時代のイスラエルの人々には王がいなかったため、ある意味、それぞれ自分が自分の王であったということでしょう。その結果、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた、そういう時代であったということです。
自由と自己責任の時代といえば、聞こえが良いですが、その当時のイスラエルには、モーセの律法がありましたから、社会に規範がなかったというわけではありません。しかし、「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」と記される背後には、神の御心が求められていた時代ではなく、人間が中心となっていた時代であったということでしょう。
『ルツ記』の時代背景は、まさにそういう時代でした。そういう時代背景であるからこそ、『ルツ記』の出だしで記されている、モアブへの移住の話は、とても興味深い事件です。それは、単にイスラエルに飢饉が襲い、食糧不足になったからという理由だけでは説明のつかないことだからです。
『ルツ記』の一章の終わりを読むとわかる通り、この飢饉のためにイスラエルの国を出たのは、ごく限られた人たちでした。大半の人たちは、苦しい中で、祖国にとどまっていたものと思われます。番組の冒頭でも言いましたが、モアブというのは、イスラエル人にとって敵対する民族でした。申命記23章4節以下にはこう記されています。
「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。」
モアブはもともとアブラハムの甥、ロトを先祖とする民族です。そういう意味ではイスラエル民族にとって遠い親戚ということができます。しかし、イスラエルを呪わせたばかりか、モアブの娘たちはイスラエルの人々を誘惑して異教の神々を礼拝させるという事件も起こしました(民数記25章)。
そういう民のもとへ移住するということは、イスラエル人にとっては、いくら飢饉とは言え、ふつうは考えられないことです。まさに、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた時代だからこそ、そんな行動も起こりえたのでしょう。
家族を連れ立ってモアブの地へ移住することを決断したのは、エリメレクという人物でした。エリメレクという名前は、「わたしの神は王」という意味の名前です。名前はそうですが、実際の行動は、王である神に従うよりは、自分自身が自分の王であるような行動です。もちろん、家長として家族の幸せを誰よりも願う点では、良い父親でした。飢饉という状況の中で、モアブの地へ旅立つ決断をしたのは、苦渋の選択であったかもしれません。妻と二人の息子を連れ立って、見ず知らずの外国へ移住することは、決して簡単なことではありません。
けれども、同じ飢饉の中にあって、地元にとどまる人たちの目から見れば、その行動は常識を疑われたかもしれません。現代の日本で置き換えて考えるならば、自然災害で地元を離れて海外移住しなければならなくなったとき、その行き先の候補地は、日本のパスポートでは入れない国をわざわざ選ぶでしょうか。エリメレクのとった行動は、それくらい常識では考えられない行動でした。
見知らぬ土地での暮らしは、飢饉で苦しむことを思えば、それでも、この一家にとっては幸せな時であったかもしれません。けれども突然の不幸がこの一家を襲います。家長であったエリメレクが、妻のナオミと二人の息子たちを残して、突然亡くなってしまいます。見知らぬ土地で一家の支えを失ったこの家族の絶望感はどれほど大きなものだったことでしょう。
その苦しみを乗り越え、二人の息子たちは無事に成長し、やがてそれぞれモアブ人と結婚します。モアブ人との結婚は、この二人の息子たちにとって、モアブを第二の故郷とする決意の表れであるように思われます。娘を嫁がせるモアブの人たちから見れば、この家族がもはや一時的な寄留者ではないと思えた証でしょう。
しかし、その幸せも十年で終わりを迎えます。この二人の息子に突然の死が襲います。外国の地からやってきて、とうとう独り遺されたナオミにとって、今までの自分の人生が、いったい何の意味があったのかと、そう思えたかもしれません。
この『ルツ記』は、独りの女性の人生のどん底から始まります。神から見捨てられたように思えるこのナオミに、神はどんな恵みと希望をお与えになるのでしょうか。ここから始まる神の祝福のストーリーをこれから少しずつご一緒に学んでいきましょう。