2020年10月29日(木) 神の武具を身に着ける(エフェソ6:10-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「戦う」とか「争う」ということを、あまりよいことと思わない風潮があるように思います。もちろん、何に対する戦いなのかによっては、好戦的になることもあります。
例えば、スポーツの世界では、コンマ1秒の速さを争い、1点の得点を巡って戦います。「受験戦争」という言葉は今も健在で、受験生は睡魔と戦いながら勉強します。
しかし、特に相手が権力者である場合には、争ったりしないで、長いものには巻かれた方が得策と考えるのは、何も日本人だけではないようです。
もっとも、まことの力と権威を持ったまことの神さまが相手となると、そう簡単には自分を明け渡さないのが人間です。戦う相手を間違えているのではないかと思うこともあります。
今日取り上げようとしている個所には、信仰の戦いに必要な武具の話が出てきます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
今、お読みしました個所には、信仰的な戦いについて三つの大切なことが記されているように思います。一つは、誰の力によって戦うのか、二番目は、戦う相手は誰なのか、そして、三つ目は、信仰の戦いに与えられた武具は何なのか、という三つの大切な事柄です。
それでは一つずつ見ていくことにしましょう。
まずはじめに取り上げられるのは、誰の力によって戦うのか、という問題です。これが一番最初に取り上げられているのには、大きな意味があります。パウロはこう勧めます。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」
信仰的な戦いを自分の力で戦い抜け、とは言いません。いえ、自分の力で戦えると思ってはいけないのです。主により頼むこと、主の偉大な力によって強くなることが大切です。
パウロにはユダヤ人として優秀な経歴がありました。律法の書にも精通し、ユダヤ人としての誇りもありました。もちろん、キリストと出会ってからはそれらを「塵あくた」とさえ見なすようになりました(フィリピ3:3-8)。そんなパウロにも自分についての捨てがたい思いが一つありました。それは自分に与えられた「一つのとげ」を巡る思いです。それが具体的に何を指すのかは不明ですが、少なくともパウロにとって、それさえなければもっと力強く福音のために働くことができると思えるような障害でした。そのとげは、パウロにとって自分の弱さであったと感じられました。それが取り去られるように神に何度も祈りました。しかし、神から与えられた答えは、弱さの中でこそ、十分に発揮される神の恵みの強さでした(2コリント12:7-10)。
この経験は、とても大切なことを教えています。主の力強さ、主の恵みの偉大さだけが、土くれにすぎないわたしたちを強くすることができるという真理です。主により頼むこと、主の偉大な力によって強くなるとは、逆説的ですが、自分の弱さを受け入れて、すべてを神の御手に明け渡すことです。
二番目にパウロが教えている大切なことは、誰が信仰の戦いのほんとうの相手なのか、という問題です。
パウロは信仰の戦いの相手は、血肉ではない、つまり、人間相手ではないと断言します。人間や社会の背後にあって、人を罪にいざなう悪魔の策略、支配と権威、闇の世界の霊的な支配者こそ戦いの相手であるとパウロは指摘しています。目に見えない相手との戦いです。
ここには「支配」と「権威」という言葉が使われています。同じような言葉は2章2節にも登場しました、そこにはこう記されています。
「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」
人に過ちと罪を犯させるような霊的な力です。悪魔の策略は、いかにもそれとわかるような仕方で人間を襲うわけではありません。もっともらしい仕方で、人間を罪へといざないます。
エバをいざなったサタンは、エバに対して「神に逆らえ」とは言いませんでした。ただ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と疑問を抱かせただけでした。
だからこそ、神の力に頼って強くなり、神の武具を身にまとう必要があるのです。
そこで、三番目に信仰の戦いに必要な「神の武具」の話題へと話が進みます。
それらは、真理の帯、正義の胸当、福音の履物、信仰の盾、救いの兜、御言葉の剣と呼ばれています。ここで使われている武具のイメージは、御言葉の剣を除いて、防御のための武具です。戦いの相手は「火の矢」を放ちますが、こちらには反撃の火の矢が必要だとは言われていません。そういう意味で信仰の戦いは地道です。いえ、戦い抜くことができるなどと、甘く考えてはいけません。攻撃から身を守るだけで精いっぱいであるかもしれません。
「御言葉の剣」も必ずしも攻撃用という意味ではないかもしれません。主イエス・キリストは荒れ野でサタンの誘惑を受けたとき、神の言葉でサタンの誘惑をすべて跳ね返しました(マタイ4:1-11)。
時にサタンは味方のふりをして、聖書の言葉を巧みに利用することもあります。キリストを罪へといざなったサタンは、聖書の言葉を持ち出して、神が守ってくださると聖書に書いてあるから、高いところから飛び降りてはどうか、といざないました。聖書を手にして、ただ表面を読むのではありません。神の望まれることは何かを、いつも聖書の中に見出す姿勢が大切です。それこそが、御言葉の剣を持つということでしょう。
最後にパウロは祈りについて触れます。
今までパウロが述べてきた「神の武具」は、どれも人間が最初から持っているものではありません。真理も正義も福音も、信仰も救いも御言葉も、それらはすべて神から与えられたものです。それに対して、祈りは私たちの側から出るものです。そういう意味で、パウロが今まで述べてきた神の武具とは異なるものです。祈りは武具というよりも、10節から始まる勧めの言葉を最初に戻って考えさせる働きをしていると理解することができます。
パウロは一連の勧めの最初に、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなる」ことを勧めました。祈りはそのために必要です。自分のためにもそうですが、信仰の仲間、信仰の友のためにもそうです。祈りによって神への信頼を表し、確認することができるからです。