2020年10月8日(木) 妻と夫へ(エフェソ5:21-33)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
夫婦間の男女の力関係に対する考え方は、地域や時代によって様々だと思います。もちろん、それ以上に、個々の家庭によっても違いがあります。ただ、夫婦間においても男女平等という意識が定着してきたのは、近現代に入ってからのことだと思います。
そういう男女平等の意識が高い今の私たちが読むと、今日取り上げようとしている箇所に出てくる言葉のいくつかは、受け入れがたいもののように感じられるかもしれません。例えば「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」という勧めの言葉や、「夫は妻の頭」という表現に強い違和感を感じるでしょう。
しかし、今日取り上げる箇所で言われていることがらは、決して男尊女卑を肯定した価値観の上に成り立っているわけではありません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章21節〜33節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エフェソの信徒への手紙の中で、今までは新しい人を着た新しい人の生活について見てきました。きょうから何回かにわたって取り上げる箇所も、大きな流れからいえば、新しい人の生活を扱った個所です。その中でも、特にクリスチャン同士の様々な関係が取り上げられています。パウロが特に取り上げているのは、夫婦の関係、親子の関係、そして、主人と奴隷の関係です。
それらの人間関係を取り上げるに先立って、パウロは21節で「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と勧めます。これはキリストを信じる人たちの人間関係の基本ともいうべきことがらです。これから取り上げる夫婦の関係も、親子の関係も、キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合う関係であるということです。その基本をまず心にとめて、個々の関係についてみていきたいと思います。
パウロが最初に取り上げているのは、夫婦の関係です。パウロはまず妻に対する勧めから始めます。
その当時の社会的な状況では、妻の立場は弱いものでした。ローマの世界では「離婚するために結婚し、結婚するために離婚する」(セネカ)と言われるくらい婚姻関係は危ういものでした。もちろん、その主導権は女性にではなく、男性にありました。
ユダヤの世界でも、必ずしも女性の地位が重んじられていたわけではありません。離婚について申命記23章1節にはこう記されています。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
この規定を巡る解釈には二通りありました。厳格なシャンマイ派のラビたちは「何か恥ずべきこと」の意味を厳格に理解し、姦淫の場合に限って離婚を認めました。しかし、もう一方のヒレル派のラビたちは「何かこ恥ずべきと」とは、ほとんどどんな理由でも良いと考えられていました。たとえば、料理が下手であることも離婚の理由として正当化されました。しかも、この規定は、ほとんどの場合、男性が主導権を持っているのであって、女性の側から離婚を申し立てることは例外的でした。
そうであれば、弱い立場に置かれた妻に対して、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」と勧めるのはなおさら酷な言葉であるように感じるかもしれません。しかも、夫は妻の頭であるとさえパウロは言い切ります。これはキリスト教会も当時の社会を反映して、男尊女卑の思想が入り込んでいるということでしょうか。決してそうではありません。
パウロがここで頭と体の関係を持ち出しているのは、キリストと教会の関係に夫婦関係の奥義を見出しているからです。キリストが教会の頭であるという意味は、決して気ままな支配者という意味ではありません。
パウロは妻に対して、人間関係の基本である、「キリストに対する畏れをもって」夫に仕えることだけを求めていますが、夫に対してはそれ以上のことを求めています。
夫に対しては「妻に仕える」という言葉こそ使ってはいませんが、むしろそれは、21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」という言葉の中に前提されていることです。そのうえで、夫に対しては、まず、教会のためにご自分の命をささげたキリストの愛に倣うようにと勧めます。キリストは仕えられるためではなく、仕えるために、またご自分の命を献げるために来られました(マルコ10:45)。妻に対してそのような仕え方が夫には求められています。夫が妻の頭であるとはそういう意味です。
第二に、キリストが教会を愛する愛は、教会を清めて栄光に輝く姿でご自分の前に立たせるためでした。夫にもそれと同じ愛が求められています。結婚を通して妻の人格が高められ、輝くようになること、それが結婚した夫婦に求められることです。互いに相手を貶め、けなし合うとすれば、それは結婚の本義にもとることです。そうではなく、相手を清め、高め、輝くようにすることを、まず夫に率先して求めています。
第三に、夫には自分の体を愛するのと同じように妻を愛し、養い、いたわることが求められています。体を抜きにして頭だけで存在することができないのは誰もが知っていることです。夫が妻の頭であるということは、体である妻を必要としているということです。体である妻を切り離せば、自分自身の意味もなくなってしまうと思うべきなのです。
最後にパウロは創世記2章24節を引用してこう述べます。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
この引用された言葉は、エバがアダムのあばら骨から取って造られた話と関連付けられて理解されてきた言葉です。夫婦が一体であることを根拠づける言葉です。
しかし、パウロはこの言葉をまずキリストと教会との関係を表す奥義ととらえ、その関係を夫婦の関係に適用しているということです。キリストと教会が一体であるように、夫婦にも一つとなる愛が求められています。キリストと教会の関係を見るときに、夫婦のあるべき姿が見えてくるのです。