2020年10月1日(木) 賢い者として(エフェソ5:15-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日本キリスト改革派教会が創立されるとき、創立者たちは、戦前・戦中の日本のキリスト教会の歩みを反省し、第一に掲げたことは、何事も神の栄光のために生きるという生き方でした。それは生活のどんな部分にもまことの神がいらっしゃるという世界観・人生観に立った生き方です。
わたしたちの生きている世界は、戦前も戦後も、まことの神を知らない人たちが大多数を占める世界です。そういう人たちの生活スタイルやものの考えかたが、世の中の主流を占める世界です。うっかりしていると、聖書の教えとは違った生き方に知らず知らずのうちに流されてしまいます。あるいは自覚していても、この世の生き方に妥協してしまい、神のいない世界を生活の中に作ろうとしてしまいます。ときとして、その方がこの世と対立して生きるよりも知恵ある生き方だと錯覚してしまうことさえ起こります。
クリスチャンとして、本当に賢い生き方、知恵ある生き方とはどういう生き方でしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章15節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
パウロはこの手紙の4章から、ずっと新しい人を着た人の歩み方について色々な角度から書き綴ってきています。
前回は光の子としての歩みとして、その生き方を描いていました。今回取り上げる個所では、賢い者の歩みとして、新しい人の歩みを描いています。
パウロは「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と勧めます。
「愚かな者」「賢い者」の対比は旧約聖書の中にも出てくる表現です。ここで使われている言葉は、「知恵のない者」と「知恵のある者」という対比です。
賢い者、知恵のある者とは、旧約聖書の教えでは、ただ単に物知りという意味では決してありません。旧約聖書『箴言』にあるように、「主を畏れることは知恵の初め」と言われています(箴言1:7)。知恵ある生き方とは、神の存在を知って、畏れ敬う生き方です。逆に、神などいないという生き方こそ、愚かな者の生き方ということができます。
旧約聖書『詩編』の14編の出だしは、「神を知らぬ者は心に言う 『神などない』と」という言葉で始まっています。実は「神を知らぬ者」と訳されている言葉は「愚か者」という言葉です。聖書が言う愚か者とは、まことの神を知らない者、まことの神などいないと心の中で思っている人のことです。
この手紙の受取人たちが生きていた世界も、今わたしたちが生きている世界も、まことの神を知らない人たちや、その存在を否定する人たちが大多数を占める世界です。そうであればこそ、パウロは「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と勧めます。
「細かく気を配って」と訳されている言葉は「注意深く」とか「正確に」という意味の言葉です。だいたいこんな感じという大雑把な生き方ではありません。どんな些細な違いにも注意を払い、正確に神の教えに立って生きようとする生き方です。神の言葉をあいまいにしてしまうとき、神に従う生活もあいまいになってしまうのです。
賢く生きる生き方にはまた、今の時代は悪い時代だという認識があります。パウロはこう勧めます。
「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」
「時をよく用いる」という言葉は、「時を贖う」という面白い表現です。「贖う」とは代価を支払って買い戻すことです。つまり、今の時は、意識して買い戻さなければ、自分の時ではない、というニュアンスがあります。悪い時代の流れの中で生きていれば、決して時も機会もよりよく用いられることはないという意識です。
さらに、17節では賢い者の生き方を要約してこう述べています。
「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」
無分別な者とは、愚かな者と同義語ですが、この文脈の中では、何が神の御心であり、何が人間の心の欲望から出てきているものであるのかを区別できない者のことです。
実際の生活の中で、様々な選択をする時に、何が神の御心であるのかを知ることは、そんなに簡単なことではありません。どんな仕事に就くのか、誰と結婚するのか、個々の事情について、いったいどれが神の御心であるのか、それを知ることは簡単ではありません。けれども、明らかに神の御心ではないもの、聖書の教えに反することを見分けることは、それほど難しいことではありません。明らかだからと言っておろそかにするのではなく、そうした分別の積み重ねが、主の御心に対する感性を研ぎ澄ませていくのです。
感性を鈍らせない賢い者の生き方を、パウロは「酒に酔いしれる生き方」と「聖霊に満たされた生き方」の対比で描いています。普通は、「酔っ払い」に対して使われる言葉は「しらふ」という言葉です。しかし、パウロは賢い者の生き方を「しらふ」とは表現しないで、「聖霊に満たされた生き方」と表現します。お酒に酔いしれなければ、それでいいというのとは違います。もっと積極的な生き方がここでは求められています。「霊に満たされよ」とパウロは命じています。
では、「聖霊に満たされる」とは具体的にどんなことを念頭に置いているのでしょうか。
「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」とその内容を語っています。聖霊に満たされるとは、何か特別な恍惚状態に陥ることではありません。主に向かって心から賛美の歌声をあげることです。
ただここで面白いのは「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合う」という表現です。「歌い交わす」のではなく、「語り合う」という表現をあえて使っています。ほぼ同じ勧めの言葉を、コロサイの信徒への手紙3章16節では「詩編と賛歌と霊的な歌により、知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」(私訳)と記しています。どちらの場合も、歌のメロディーに着目しているのではなく、歌詞の内容に着目しているように思われます。賛美の歌の歌詞を通して、互いに教えたり、諭したりする賛美歌の用い方に興味を惹かれます。
最後にパウロは、賢いものの生き方について締めくくるにあたってこう述べます。
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
不思議なことですが、神などいないと心の中に思う人ほど、突然の不幸な事態に遭遇するときに、「神などいない」という思いを深めていきます。それに対して、まことの神がいますことを信じて生きる者は、どんな事態の中にも神の導きを信じて、神の恵みを見出そうとします。それは、日常的な事柄の中に、神の恵みを見出して、神に感謝する日々を積み重ねているからです。