2020年9月24日(木) 光の子として(エフェソ5:6-14)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「光」と「闇」、「白」と「黒」といえば、両極端にあるものとして、誰もが認識しています。光を闇と間違える人はいませんし、白を黒という人もいません。それくらい区別のはっきりしたものです。
また、光も白も、正しさや清さ、というイメージと結びついているのに対して、闇や黒は悪や汚れのイメージと結びついています。それらのイメージもまたはっきり区別されるものとして認識されています。
けれども、イメージとしての「光」や「白」を現実の自分に当てはめようとするときに、自分を真っ白だという人も少ない代わりに、自分が真っ黒だという人も少ないように思われます。たいていの人は自分を真っ白と思わないけれども、どちらかといえば白に近いグレーだと答えをあいまいにしてしまうのではないかと思います。そう答えれば、誰からも上げ足を取られることもなく、非難されることもないので、気が楽かもしれません。また、正直なところ、そうとしか答えようがないのでしょう。
しかし、聖書の世界では、グレーであることに安住することを許してはくれません。人間の世界ではグレーであることも、神の目には曖昧ということがないからです。そのような中にあって、新しい人を身に着けたクリスチャンはどのように生きることが求められているのでしょうか。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章6節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。…光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。…何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
今まで新しい人の歩みについてエフェソの信徒への手紙から学んできました。それは、神に愛される子供としての歩みであり、また、聖なる者にふさわしい歩みでした。きょう取り上げた個所もその続きです。きょうの個所では、新しい人の歩みを光の子としての歩みととらえています。
「光の子」という表現は、この手紙の中ではここに初めて登場する言葉ですが、突然降ってわいたイメージではありません。光と闇のイメージは、この手紙の中ですでに登場しています。
パウロはまことの神を知らない異邦人の歩みをこう描いていました。
「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(エフェソ4:17, 18)
神から遠く離れた生き方の特徴は、その知性の暗さにあります。この場合の知性とは、一般的な知的能力のことを言っているのではありません。神を知り、その御心を理解する力のことです。そうした理解力が暗いために、神の真理を知りえなくなっているというのです。
それに対して、ユダヤ人と共にこの異邦人をも救いの中に入れようとご計画されたのが、この手紙の中で何度も出てきた神の「秘められたご計画」でした。今やキリストによってそのご計画の実現の時が到来しています。ですから、救いに入れられた異邦人たちのためにパウロがまず祈ったのは、1章17節以下に記されている言葉の通りです。つまり、暗くなった知性を照らす「知恵と啓示の霊が与えられ」神を深く知ること、また、「心の目が明らかにされて」、神が与えてくださる希望と受け継ぐべきものがどれほどのものであるのかを悟るようになることでした。
こうした救われる前と今との間には、闇と光、明暗のイメージがはっきりと表れています。
また、2章では救われる以前の姿を「自分の過ちと罪のために死んでいた」と表現し(2:1)、そのために「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(2:3)と描いていました。それに対して、救われた今を「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて」くださった輝かしい恵みとして描いています(2:6)。
この対比は、5章8節で「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」という言葉で表現されています。つまり、この手紙の流れからいって、闇と光の対比は決して唐突にでてきたものではありません。
かつては神の怒りがくだる不従順な者であったのに対して、今は光の子としての生き方が求められているのです。
ここで、特に注意を払いたいのは、パウロは光の子となるために、暗闇の業を離れるようにと言ってるのではありません。すでに「光の子」という身分を与えられていて、それにふさわしく生きることが求められているということです。たとえて言えば、「学生らしく勉強しなさい」と命じることは、相手が学生でなければ意味がありません。相手が学生だからこそ、学生らしさが求められているのです。それと同じように、パウロがこれらのことを命じているのは、この手紙の受取人を「光の子」であると認めているからです。光の子とされた恵みに応えて生きることこそパウロが願っていることです。
8節でパウロは光が生み出す「実」についてこう述べています。
「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」
これは、自分が光の子であるかないかを判断する基準ではありません。光の子である生き方が、どのような結果をもたらすかを示したものです。そう実を結ぶように自分を絶えず吟味していくこと、そのことこそ大切です。
では、具体的にどのような吟味が光の子として生きていくために大切なのでしょうか。9節でパウロはこう述べます。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」
主に喜ばれるかどうかの吟味自体、決してたやすいことではありません。ただ、少なくとも、自分の生き方の基準が自分の喜びでないことは明らかです。そのうえで、何が主を喜ばせることであるのかを判断するためには、日ごろから神の言葉である聖書に触れることが大切です。聖書を読まないで、神が喜んで下さることを判断することはできません。
光の実を結ぶために、もう一つできる吟味を、パウロは11節以下でこう述べています。
「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。」
これを言い換えれば、今しようとしていることが、すべての人の前に明らかにされたとしても、決して恥ずべきことではない、と言い切れるか、という吟味です。実を結ばない暗闇の業は、隠れたところで行われるものです。いえ、それ以上に大切なことは、神の御前で、少しもためらうことなく、それを行えるかどうかの吟味です。それは結局のところ、神の喜ばれることを吟味することにつながっていきます。こうした吟味を日々積み重ねることで、すでに光の子とされた私たちが、ますます光の子にふさわしく歩むことができるようになるのです。