2020年9月17日(木) 神の清さにふさわしく(エフェソ5:3-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「清さ」や「聖なること」に対する関心を、世間一般の人たちがどれくらい持っているのか、心もとない思いがします。日常会話の中で、いかに清さを保つかなどという話題は、まず耳にすることがありません。むしろ、そんなことを熱く語れば、浮いた存在にすらなってしまいます。
もっとも、そうかといって、自分がみだらで下品な人間だと自認する人も少ないように思います。おおよその人は、自分がそんなに清くもなく、そうかといって汚れた生き方をしているとも思っていないというのが、正直なところではないかと思います。
エフェソの信徒への手紙を受け取った人々が暮らす社会はどうであったのかというと、もちろんパウロの目から見れば、卑猥な言葉が飛び交い、下品な冗談も耳にするような人々の暮らしでした。ただ、そのような暮らしが日常となっている社会に生きる人たちにとっては、それが普通のことでしたから、自分が取り立てて清いとは思えないにしても、それほどひどく汚れた人間だとも感じてはいなかったことでしょう。
そういう意味では。今も昔も清さに対する人の意識はそれほど変わっていないかもしれません。
今日取り上げようとしている箇所には、この清さの問題が取り上げられます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章3節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
前回学んだ個所には「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」という言葉がありました。神は愛であるお方として、その愛を注いでくださいました。この神の愛に応えて、神に倣って生きること、それが新しい人を着た新しい生き方に求められている大切な一つのことでした。
そして、今日取り上げた個所では、神の重要なご性質の一つである「聖」あるいは「清さ」に関わる生き方が取り上げられています。
旧約聖書の時代から、神はご自分を聖なるお方として啓示してこられました。そして、神の民も、神が聖であるように、聖なるものとなることが求められていました(レビ11:45, 19:2)。そういう意味では、この清さにふさわしく生きることは、ユダヤ人クリスチャンにとっては目新しいことではなかったでしょう。しかし、異邦人社会から抜け出して信仰を持つようになった人たちには、ハードルが高い生き方であったのではないかと思われます。
というのも、4章19節ですでに述べられているように、異邦人社会では「放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを」知らないというのが当たり前のように見られることでした。もちろんこれはユダヤ人のパウロの目から見た異邦人社会の様子ですから、大げさな表現といわれるかもしれません。しかし、神が聖であるように、「あなたたちも聖なる者となりなさい」という律法の言葉を幼いころから学んできたパウロにとっては、異邦人社会の在り方はそのように見えたとしても不思議ではありません。
そのような社会に生きる異邦人クリスチャンにとっては、この世の生き方に流されるのではなく、一層このことに力を注ぐことが求められています。というのも、異邦人クリスチャンもまた聖なる者として聖別されているからです。聖別するとは、神のご用のために取り分けておくことです。そうであるからこそ、それをけがしてはならないのです。神が聖別してくださったのですから、それにふさわしく生きることが、ここでは求められているのです。
聖なる者にふさわしい生き方として、パウロが具体的に挙げていることは、みだらなこと、汚れたこと、貪欲なことを口にしてはいけないということでした。
「口にする」と訳されている言葉は、本来の意味は「名づける」とか「名前を呼ぶ」という意味の言葉ですが、ここでは「言及する」とか「口にする」という意味で用いられています。いくつかの現代訳の聖書では、「ほのめかしたりすることさえあってはならない」と訳しています。
直接そういう言葉を口にしなければよい、という問題ではありません。遠回しに言うことも、また、それとなく態度に表すことも含まれています。
ところで、「みだらなことやいろいろの汚れたこと」という、この二つのつながりは、比較的理解しやすいと思われます。「みだら」とは、特に性的な乱れを指す言葉ですが、それが神が求める清さに反する汚れた思いと行いであることは、説明の必要もないほど明らかなことです。もちろん、聖書は「性」そのものを汚れたものとして扱っているのではありません。その乱用を問題にしているのです。
3節ではみだらなことやいろいろの汚れたことに続いて、「貪欲なこと」が挙げられています。「みだらなこと」と「貪欲なこと」とは一見関連性がないように思われるかもしれません。しかし、十戒の言葉を念頭に考えると、みだらなことと貪欲とのつながりは明らかです。
第十戒にはこう記されています。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
十戒では、貪欲の対象に「隣人の妻」も含まれています。つまり、とどまるところのないむさぼりが、ひいては性的な乱れをも生み出す原因となるということです。ですから、パウロは「みだらなことやいろいろの汚れたこと」と記すだけで筆をとどめないで、そこにそれらの原因となる「貪欲」をも含めたものと思われます。
続く4節の前半では、さらに踏み込んで「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談」も聖なる者にふさわしくないと戒められています。こうした事柄に敏感になって、いちいち目くじらを立てる生き方をするのは、窮屈だと感じるかもしれません。世間の人から見れば、若干の軽蔑を込めて「堅物」と呼ばれるかもしれません。
けれども、4節の後半は、もっと積極的な言い方で、聖なる者にふさわしい生き方を提示しています。それは、感謝を表すことです。聖なるものにふさわしく生きるということは、ただ、口をつぐんで、何も言わないことではありません。パウロはそれで十分とは決して言いません。あらゆる事柄に神の恵みを見出し、感謝を表すことこそ、聖なる者にふさわしい生き方であり、感謝の生活こそ、人をまことの清さへと高めていくものなのです。
最後に、5節で、みだらなことと汚れたこと貪欲なことを避けて生きるようにと命じる理由を「キリストと神の国を受け継ぐことができないからだ」と述べて結んでいます。
すでにパウロは1章13節以下で、救いにあずかる一人一人に聖霊によって証印が押されていること、そして、この聖霊は御国を受け継ぐための保障であることを述べました。そうであるからこそ、神の国を受け継ぐにふさわしい生き方が求められているのです。