2020年8月27日(木) 新しい人を着る(エフェソ4:17-24)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンとそうでない人では、どうこがどう違うのですか、と聞かれることがあります。その質問がでる背景には、いろいろあります。

 たとえば、クリスチャンになると、何か意識や行動が変わるのですか、という純粋な興味から出てくる場合もあれば、クリスチャンだからと言って、特別に目に見えて変わらないのではないか、という批判的な動機から質問が出る場合もあります。

 確かに、旧約聖書を読めばわかる通り、まことの神を知っている、信じているというだけで、他の人と何か目に見える特別な違いが出てくるわけではありません。選民と呼ばれるイスラエル民族でさえ、相変わらず罪が人の心を支配しています。

 もちろん、優れた人物がたくさんいることも事実です。しかし、クリスチャンでない人の中にも優れた人物はたくさんいます。

 では、何も違わないのか、というとそうではありません。あえて言えば、生きていくうえでの前提と目指すところが違うということだと思います。

 エフェソの信徒への手紙も、4章に入って、信仰者としての具体的な生き方の勧めがなされています。そして、その勧めの言葉には、キリストによる救いということが大きな前提になっています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章17節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 前回までの学びでは、教会の一致と多様性が、相反する事柄ではなく、むしろ、多様性の中に真の教会の一致性があるのだ、ということを学んできました。一人一人に与えられた賜物を排除して、教会の真の一致を考えることはできません。教会の一体性は、人の体が様々な部分から成り立っていながら、一人の統一性のとれた人間であることにたとえられていました。

 きょうから取り上げる箇所には、キリストの体の構成員である、信徒一人一人に求められる生き方が、勧められています。

 パウロは、ここで、「もはや、異邦人と同じように歩んではならない」と強く勧めています。この場合の「異邦人」という言葉には、選民の目から見た異邦人への蔑みを感じるかもしれません。

 しかし、パウロは、2章1節で、異邦人読者を念頭に置いて、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と述べながらも、3節では「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて…ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と告白しています。つまり、パウロの意識の中に、異邦人が特別に罪深いという差別意識があるわけではありません。

 ここでパウロが使っている「異邦人」という言葉は、まことの神を知らない人、あるいは、まことの神を拒絶して生きている人、という意味です。2章でパウロが正直に告白しているとおり、それは、ユダヤ人自身もある意味でそうでした。神を知るべき知性が暗くなり、心が頑ななために、神の命から遠く離れた生き方です。

 かつてはそうであったとしても、今はキリストを通して、神を知るものとされました。そればかりか、キリストを通して神の御前に受け入れられるものとされているのです。それらは、恵みとして神から与えられました。

 そこが、クリスチャンの歩みの出発点です。その恵みを捨てて生きるのではなく、その恵みに留まり、恵みに応えて生きること、そのことがここでは求められています。

 パウロは、まるで着物のように、神の御心にそわない生き方をしてきた古い人を「今すぐ脱ぎ捨てるように」と命じます。それは、滅びに向かっている古い着物だからです。神の恵みと正反対に向かう古い人だからです。パウロは愛着のある古い服の話をしているのではありません。むしろ、それを着ていれば確実に滅びに至る脱ぎ捨てるべき服の話です。いわば、火がついた衣です。火がついた着物をいつまでも着ている人がいるでしょうか。今すぐ脱ぎ捨てるのが当然です。

 そればかりではありません。そのようなかつての生き方が、キリストのうちにある真理と相いれないからです。キリストと結びつくことで、命へと歩み始めた者が、キリストのうちに現れた真理と相反する生き方をすることは、自己矛盾しているからです。したがって、古い人を今すぐ脱ぎ捨てる必要があるのです。

 しかし、パウロは、脱ぎ捨てて、裸のままでいるようにとは言いません。「新しい人」をすぐ着るようにと命じています。その新しい人について、パウロは「神にかたどって造られた新しい人」と呼んでいます。

 旧約聖書「創世記」では、「神は人を御自分にかたどって創造された」と記されています(創世記1:27)。しかし、同じ「創世記」には、その神のかたちをもった人間が、そののち自ら犯した罪によって堕落してしまい、永遠の命から離れた存在になったことが記されています。

 もちろん、人は堕落によって神のかたちを全く失ってしまったというわけではありません。神のかたちは、キリストにあって修復される必要がありました。まことの義ときよさをもった神のかたちに再び造られる恵みを、新しい人を着ることによっていただくことができるのです。

 ところで同じような表現は、コロサイの信徒への手紙3章10節にも出てきます。そこには、こう記されています。

 「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」

 「日々新たにされて、真の知識に達するのです」という部分は「新しい人」を修飾している文です。原文の意味は「真の知識へ向かって日々新たにされつつある新しい人」ということです。つまり、「新しい人」自身も、すでに完成した新しい人なのではありません、日々新たにされている新しい人なのです。

 神の恵みにとどまって生きるとき、日々新たにされ、完成へと向かうことができるのです。