2020年8月13日(木) 教会の一体性(エフェソ4:1-6)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 生き方というのは、その人の倫理観や価値観、信念と深く結びついているものです。それを自覚しているかどうかは別として、その人の内に形成された倫理観や価値観、信念にしたがって人は、人は生きていくうえで様々な選択をします。

 例えば、信頼より成功により重い価値を置く人は、成功するために他人を裏切ったり騙したりすることをやむを得ないことだと考え、そう行動するでしょう。誰が見ていなくてもルールは守るべきだという信念を持っている人は、たとえ一台も車が通らない道でも、赤信号を無視して渡ることはしないでしょう。それと同じように、信仰と生き方は、決して別のものではありません。

 きょうから、エフェソの信徒への手紙も後半に入ります。4章以下には様々な勧めの言葉が記されていますが、それらは、キリスト教信仰に基づいた生き方についての勧めの言葉です。今までパウロが記してきたことと、これから学ぼうとしているパウロの勧めは、決してバラバラの行き当たりばったりの勧めではありません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

 前回取り上げたパウロの祈りの言葉の中に、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」というくだりがありました。4章以下に記されている様々な勧めの言葉は、それを通して、キリストが内に住んでくださり、愛にしっかりと立つものとなることが、その目標です。

 また、同じ祈りの言葉の中に「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りがありました。4章以下に記される様々な勧めが目指すところは、日々の生活の中で神の満ち溢れる豊かさを思いめぐらし、その豊かさに満ち溢れるようになることです。

 パウロはまず、神から招かれた、その招きにふさわしい生き方をするようにと勧めています。特にパウロが今まで述べてきた事柄は、救いの秘められた計画についてでした。そのご計画によれば、神はキリストにあってユダヤ人と異邦人という区別を撤廃して、両者が一つの聖なる民、一つの神の家族として救われるようにされました。

 そういう意味で、パウロは、この教会の一致を保つことこそ、神の招きにふさわしい生き方であることを、最初に取り上げています。

 この一致を保つために必要な心のありようを、パウロは三つあげています。それは、高ぶらない心、柔和な心、寛容な心の三つです。

 「高ぶることなく」と訳されている言葉は、「自分を低く思う」、「謙遜になる」というのがもともとの意味です。「謙遜」ということは、聖書の世界に限らず、日本人にとっても美徳の一つと考えられています。しかし、地中海地方を支配していたギリシアの文化の中では、「自分を低く思う」ということは、決してほめられたことではありませんでした。むしろ高い自己評価を持つことこそ大切なことと思われていました。もちろん、高い自己評価を持つことは、悪いことではありません。しかし、それが昂じて、他人を見下すようになれば、一致を保つことは難しくなります。

 この「自分を低く思う」模範を示してくださったお方は、イエス・キリストご自身です。フィリピの信徒への手紙の中でパウロは、謙遜の模範としてキリストのご生涯を挙げて、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)と述べています。

  「柔和」という言葉は、ヘブライ語では、「苦しめられる」「抑圧される」という言葉と関係しています。苦しみを知っている者だけが、真に神を頼り、心の平安をもって穏やかに生きることができるというニュアンスです。柔和の模範も、謙遜と同じようにキリストご自身が示してくださいました。

 イエス・キリストは、疲れた者、重荷を負っている者たちを招かれるときに、ご自分が柔和な者であるとおっしゃいました(マタイ11:29)。また、エルサレムに入城されるとき、軍馬ではなく、あえてロバの子に乗って、柔和な王としてやって来られました(マタイ21:5)。

 「寛容の心」と訳されている言葉の元々の意味は、「怒りから遠い」という意味です。すぐに怒りをあらわにするのではなく、注意深く物事を理解し受け止めようとする心です。そういう意味での寛容さです。

 謙遜、柔和、寛容の心をもって生きること、それは神が救いへとわたしたちたちを招いてくださった、その招きにふさわしい生き方です。

 さらにパウロは、愛をもって互いに忍耐すること、平和のきずなをもって聖霊による一致に努めるようにと勧めます。ただ互いに我慢するのではありません。そこに愛がなければ、ただの我慢大会にすぎません。教会は我慢する場所ではありません。愛をもって互いを理解し、互い受け入れ合う場所です。そのために、忍耐深く接することが大切です。

 またパウロが求めているのは、人間的な一致ではありません。人間的な一致は、しばしば、異質なものを排除する方向へと動きがちです。しかし、パウロは聖霊こそが教会の一致をもたらすと確信しています。1章13節以下ですでに述べたように、信徒一人一人は、聖霊で証印を押され、御国を受け継ぐ保障として聖霊をいただいているからです。この聖霊の導きに謙虚に信頼するときに、一致へと向かうことができるのです。

 最後にパウロは、一致の基礎がすでに置かれていることに読者の心を向けています。ゼロから一致を生み出していくのではありません。混沌と混乱の中から、一致に向かって努力せよ、と命じているのでもありません。すでに一致の基礎が据えられています。

 4章3節以下で、パウロは、一つの体、一つの霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、そしてすべてのものを支配しておられる、一人の父なる神に言及しています。教会の一致の基礎は、究極的にはわたしたちを招いてくださった唯一の神にあるのです。

 確かに地上の教会には争いや分裂があることは否めません。しかし、すでに一致の基礎があるのですから、信頼して一致に向かうことが大切です。