2020年7月16日(木) キリストがもたらす平和の実り(エフェソ2:19-22)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本人が日本人について持っているイメージはどんなものがあるでしょうか。たとえば、目の前にいる人が日本人であるかそうでないかを見分けるときに、何を基準に判断するでしょうか。

 見た目で言えば、肌の色とか目の色とかそういうもので判断するかもしれません。見た目が東洋人であれば、ファッション、持ち物、しぐさなどで判断するかもしれません。それでも区別ができないときは、話す言葉で判断するかもしれません。

 しかし、そのどれも日本人であるかを見分ける目安にはなりません。法律的に言えば、日本国籍を持っている人はみな日本人ですから、肌の色もしぐさや習慣も、ましては日本語が話せるかどうかも関係ありません。日本に一度も来たことがなくても日本国籍を持った人もいます。

 そういう日本人にはちょっと違和感があると思う人もいるかもしれません。それと同じような意識は初代教会のユダヤ人クリスチャンたちの中にもありました。異邦人でありながら、しかも割礼も受けずに神の国の一員であるということに違和感を感じる人たちです。しかし、その意識の変革こそ、キリスト教会にとって大きな課題でした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章19節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 キリスト教会が、異邦人も同じ神の国の一員だ、と考えるようになったのは、キリスト教会誕生からそんなに時間がかかることではありませんでした。誰かが考えあぐねてそうなった、というよりは、異邦人の中から数多くのクリスチャンたちが生まれて来た、というその事実を受け入れざるを得なかった、という方が正しいかもしれません。

 使徒言行録15章に記されている使徒たちによって招集された会議は、まさにそのことを取り上げた会議でした。その会議の中で、ペトロは異邦人の救いについてこう発言しています。

 「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。」(使徒15:8)「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(使徒15:11)

 神による異邦人の救いが先行し、頭ではその事実を受け入れたとしても、心からそう信じてそのようにふるまうということは、また別の問題です。新約聖書の様々な個所で、この問題が取り上げられているのは、この問題が教会の中に定着するには一筋縄では行かなかったということでしょう。

 さて、今日取り上げた個所には、「一つの国民」「一つの家族」「一つの建物」という概念が出てきます。前回の個所で取り上げたように、キリストは「ユダヤ人」と「異邦人」という区別を撤廃し、平和を実現してくださいました。その結果として、教会の中に外国人や寄留者という区別が意味を失い、「一つの国民」「一つの家族」「一つの建物」という考えがもたらされました。

 「国民」と「家族」は全く違う概念ですし、「家族」と「建物」は全く違うものです。しかし、これらの異なる概念を用いながら、ユダヤ人と異邦人とがキリストによって一つにされた事の意義を説明しています。

 「ユダヤ人」と「異邦人」という対立から考えて、最初に「聖なる民に属する者」となったこと、つまり一つの国民とされたことがまず取り上げられるのは、事柄の性質から考えて当然です。異邦人はもはや、教会の中にいる外国人でも寄留者でもなく、まさに神の国の国籍を持つ一員とされたのです。

 次に出てくる「神の家族」という言葉は、さらに一歩踏み込んだ表現です。家族意識というものは、国民意識よりもさらに親密な関係を意識しています。神を父と仰ぎ、同じ兄弟姉妹としてお互いを受け入れ合う関係です。

 この世の家族と違う点はといえば、神の家族は血縁によって結び合わされる家族ではなく、キリストの救いの御業を信じる信仰によって結ばれた家族であるという点です。住む場所も生計も当然異なりますが、キリストによって結び合わされているという意識がこの家族の結束を深めています。

 パウロはそこからさらに進んで、使徒や預言者という土台の上に建てられた「建物」という表現を使います。ユダヤ人と異邦人の区別が撤廃され、一つにされたという文脈の流れから考えて、ここで言われている建物は、クリスチャン一人一人が個別の建物だというのではなく、信仰者全体で一つの建物がイメージされています。一つの土台の上に建てられ、キリストをかしら石とする一つの建物です。

 建物というのは、細かく言えば、屋根もあり、壁もあり、柱もあります。いくつかの部屋から構成され、部屋には床もあるでしょう。部屋の用途もそれぞれに異なっています。しかし、屋根や壁だけを指して建物といわないように、それぞれの要素が結び合わされて一体でなければ意味を成しません。そういう意味で、ユダヤ人と異邦人は結び合わされて、一つの建物とされたのです。

 それだけではありません。建物について普通は使われない表現をあえてパウロは用いて、こう言います。

 「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェソ2:21)

 「成長」というのは普通生き物について使う言葉です。
 建物は増築や改築されることはあっても、成長することはありません。しかし、あえてパウロは「成長」という言葉を使って、この建物が生き物のように育つべきことを語っています。しかも、それはユダヤ人と異邦人とが一つの建物として組み合わされるときに、この成長が起こるのです。

 さらに、その建物は普通の用途の建物ではなく、聖別された神殿、神の住まいとなる建物です。当時エルサレムに建っていた神殿には、異邦人がそこから先へは立ち入ることが禁じられた異邦人の庭が存在していました。その当時のユダヤ人からすれば、異邦人が神の宮を構成する欠かすことのできない要素だとは思いも及ばなかったことでしょう。ともに建てられて、一つの宮、一つの神の住まいとして成長していくとは、なんと大きな恵みでしょう。キリストはそのような平和をもたらしてくださいました。