2020年7月9日(木) キリストこそ和解と平和のもと(エフェソ2:13-18)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 アメリカで起きた警察官による黒人男性殺害によって、再び人種差別問題が大きな課題としてクローズアップされるようになりました。差別撤廃を訴える運動の根拠は、とてもシンプルなものです。それは、人間は生まれながらに平等であって、肌の色や人種によって不当な扱いをしてはならない、というものです。

 差別と似ているようで、違うものに区別があります。例えば、「○○県人会」とか「○○大学卒業生会」というのがあります。そこに所属できる人は、特定の県の出身者であったり、特定の大学の出身者であったりします。そうでない人がその会に入会できないからと言って差別だとは言わないでしょう。

 では、宗教の場合どうなのでしょうか。特定の民族の宗教に、その民族以外の人が入れない、ということがあったとしても、それは差別とは言わないでしょう。ただそのような宗教はいわゆる「世界宗教」にはならないだけの話です。

 どんな宗教でも多かれ少なかれ、初めは特定の民族と深い結びつきがあるものです。それが、民族の枠を超えて広がっていくには、その広がりを支える確固とした信条があるはずです。ユダヤの世界から生まれたキリスト教が世界に広がっていくにも、撤廃されなければならない壁がありました。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章13節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 キリスト教はユダヤ民族と深いかかわりのある宗教でした。今でこそ、キリスト教は世界に広がる宗教ですが、その始まりはユダヤ人の中から起こりました。イエス・キリストご自身もユダヤ民族の出身で、ユダヤ人に与えられた神の言葉を基としていました。

 その当時、ユダヤ人自身は地中海地方をはじめとして、ローマ帝国内に広く散在していました。キリスト教も初めはそうしたユダヤ人たちの間に広まっていきましたが、すぐにも、ユダヤ人以外の人々の間からも信じる者が起こってきました。

 ユダヤ人も目から見れば、この事実を受け入れるのには、そのことが起こったのは自分たちの信じる神がそうされたのだ、という確信が必要です。新たに入ってきた異邦人にとっても、キリスト教会がいつまでもユダヤ人の宗教であっては居心地が悪いはずです。

 先ほどお読みした個所には、まさにそのことが記されています。

 神がお遣わしになったキリストが、十字架の上で流された犠牲の血潮によって、ユダヤ人ばかりか異邦人もお救いになった、という事実をまず真摯に受け止めることから始まります。キリストの血によって、まさに異邦人は神から近いものとされたのです。

 しかし、それだけではまだ、単に、キリスト教会の中には、ユダヤ人もいて、異邦人もいるという状態に過ぎません。ユダヤ人からしてみれば、異邦人にも門戸が開かれたに過ぎません。それでは依然としてユダヤ人と異邦人の区別は教会の中で存在し続けます。

 パウロは、14節で異邦人が神に近くなった理由を説明して「なぜなら、キリストはわたしたたちの平和だからだ」と記します。異邦人が神に近づけられたのは、ユダヤ人と異邦人の平和と深いかかわりがあるということです。単に異邦人にも救いの門戸が開かれたというのとは、違うニュアンスでパウロは異邦人の救いの意義を説明しています。

 パウロは「キリストが私たちの平和である」という意味を補足してこう述べます。「キリストは両者を一つにするお方である」と。そして、両者を一つにするために、キリストはユダヤ人と異邦人とを隔てる「敵意」という壁を取り壊した、と書き記します。

 ちなみに当時のエルサレムの神殿には、たとえ信仰を持っていたとしても異邦人がそこまでしか立ち入ることのできない「異邦人の庭」が存在していました。そして、そこから先の聖域との間には、文字通り壁が立ちはだかっていました。

 両者を一つにするためには、「敵意」という隔ての壁を取り除くだけでは十分ではありません。ユダヤ教に特有の儀式に関わる律法にも手を付けなければ、両者を完全に一つとすることは困難です。もちろん、人間が律法に対して勝手な変更を加えることはできません。キリストが規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったのです。

 長い間遵守してきた律法が、キリストによって廃棄されたと確信し、それを公表することは、ユダヤ人からすれば、もちろんそんなに簡単なことではありません。使徒言行録に記された異邦人の受け入れを巡る使徒たちの出した結論も、異邦人に割礼は強要しないということでしたが、「絞め殺した動物の肉と血を避ける」ということに関しては、異邦人クリスチャンの守るべき項目の中に残されました(使徒15:20)。もちろん、それはユダヤ人たちを躓かせたり刺激しないためという配慮から出たものであったと思われます。

 いずれにしても、キリストは敵意という隔ての壁を取り除き、ユダヤ人特有の律法を廃棄し、ユダヤ人と異邦人とを一つの体とし、平和を実現したというのです。そのような役割を平和であるキリストは、果たしてくださいました。

 ここで特に目を留めたい点は、この一連の文章は、ただ単に、異邦人も救われるようになりました、ということにとどまらないことです。

 「一つの体として」とか「一つの霊に結ばれて」というこの言葉の中には、この神の救いの業全体にとって、異邦人は単なる後からの付け足しではなく、キリスト教会という信仰の共同体にとって必要な存在である、という信仰が表明されていることです。ユダヤ人と異邦人の両者が新しく一体となり、一つの霊に結ばれ、まるでひとりの人間のように神に近づくことこそ、神が秘められた計画の中で定めておられたことなのです。

 この理解があるからこそ、キリスト教会は全世界に福音を携えて出ていき、あらゆる国民をキリストのもとへと招いているのです。