2020年5月14日(木) 神の守りのうちに生かされて(1ヨハネ5:16-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ヨハネの手紙一の学びも今日で最後になりました。最後を飾る言葉の中に、とても難解な、そしてとても不安になる言葉が出てきます。それは「死に至る罪」という言葉です。しかも、その罪を犯している人々について、神に願うようにとは言わない、とヨハネは記しています。
しかし、その難解な部分を除けば、この手紙の締めくくりはとても希望に満ちています。ここに語られるヨハネのメッセージの意図を正しく読み取っていきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネの手紙一 5章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。
きょうの個所には、「死に至らない罪」「死に至る罪」という罪についての難解な区別が出てきます。一方の罪を犯す兄弟のためには祈り願うことが勧められますが、もう一方の罪を犯す者のためには、あえて願うことを勧めません。
少しさかのぼりますが、先週取り上げた個所には、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」という言葉がありました。
その祈りは、自分自身のためばかりではありません。同じ信仰に歩む兄弟姉妹のための祈りでもあります。とくに、罪の赦しを執成す祈りは大切です。
ところが、今日の個所には「死に至らない罪」と「死に至る罪」の区別があって、あたかも執り成しにも区別が設けられているような印象を受けてしまいます。いったい、「死に至る罪」と「死に至らない罪」とはどういうことなのでしょう。
旧約聖書では、ほとんどの罪は動物の犠牲をささげることで贖われました。しかし、殺人の罪や姦淫の罪、安息日違反の罪などは、死をもって報いることが命じられていました(出エジプト21:12, 35:2, レビ20:10)。ヨハネはそういう罪の種類の区別を言っているのでしょうか。
あるいは、イエス・キリストは「聖霊に対する冒涜は赦されない」(マルコ3:29)とおっしゃっています。その言葉の意味自体、必ずしも明白ではありませんが、死に至る罪とは、聖霊に対する冒涜のことでしょうか。
あるいは、ヘブライ人への手紙の6章4節以下や10章26節以下に出てくる、いったん真理を受け入れながら、そこから離れて堕落していってしまう人のことでしょうか。
わたしはヨハネがここで使っている言葉を理解するためには、パウロがローマの信徒へ宛てた手紙の中で語っている言葉、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)であるという言葉こそ、重要な鍵だと思います。パウロは罪の支払う報酬は死であることを明確に語っています。本来、罪という罪は、皆、死に値する罪であるということです。
パウロは罪が支払う報酬が死であるということに対して、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」なのだ、と述べます。神がお与えくださったキリストの十字架による贖いを信じるとき、死の縄目から解放されて永遠の命を約束されるというのです。
キリストによる罪の贖いを必要としない小さな罪はありません。どんな小さな罪であったとしても、神の御前に言い逃れることはできません。しかし、反対に、キリストを信じ、キリストの十字架の死が自分の罪を贖う犠牲であることを信じるならば、どんなに大きな罪であったとしても、贖われない罪はありません。
ヨハネ自身もキリストの十字架の死が、「わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」だと述べています(1ヨハネ2:10)。そして、キリストのうちにまことの命があり、キリストとの交わりの中に生きるとき、永遠の命にあずかることができると、繰り返し述べてきました(1ヨハネ1:1-4, 4:12)。
つまり、キリストによる罪の赦しを信じ続け、どんな小さな罪であっても自分にはキリストの贖いが必要であると信じ続ける限り、その罪はキリストによって贖われ、死はもはや力を失っているのです。
もし、キリストを信じる誰かが罪を犯し、真実に悔い改めてキリストによる救いを求めるならば、その人のために執り成しの祈りをすべきなのです。たとえ、悔いてはまた犯す弱い人であったとしても、キリストの赦しを求めるその人のために何度でも執成すことが大切です。なぜなら、その人は救いのためにキリストを必要としていると自覚しているからです。なぜなら、神はその人を永遠の命の交わりへと招いてくださっているからです。
では、キリストなど必要はないと公言する罪人がいるとき、つまり、永遠の命の交わりを自分から拒むとき、執り成しの祈りは不要なのでしょうか。ヨハネはそうは言っていません。「神に願うようにとは、言いません」という消極的な言い方です。
神と人間は違います。神は悔い改めない罪人に対してまことに忍耐深いお方です。実際そうでなければ、誰一人として救われはしなかったでしょう。しかし、人は罪人に対してそれほどまで忍耐深くはありません。執り成しの祈りをささげることに、嫌気がさしてしまうこともあるでしょう。神は無理強いはなさいません。むしろその人を神に委ねてしまうことも大切なことなのです。
ヨハネは5章20節で、「神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました」と告白しています。真実な方を知る力を与えてくださるのは、神ご自身です。誰かを悔い改めに導いたり、信仰へ導いたりすることは、人間にはできません。罪人である自分を変えて、信仰へと導いてくださる神の力に感謝して、神に信頼して歩むことこそ、大切です。
手紙の最後にヨハネは、「偶像を避けなさい」と結んでいます。偶像とは文字通りの偶像のことばかりではありません。まことの神を退け、神ではないものに頼ることすべてが偶像礼拝です。それは、自分の力を過信することも含まれます。
言い換えれば、まことの命であるキリストとの交わりの中に生きるとき、自分の力へのこだわりからも解放されて、神の命に生かされる喜びを味わうことができるのです。